夏菜side

 30分間の体育館監視を終え、私と隼人は生徒会室で一旦別れた。

 私はテープなどを持って、掲示物がはがれていないかなどの確認に、隼人は、校内のゴミ袋を代えに、先輩方と人混み溢れる校内へ繰り出した。

 クラスの宣伝ポスターを壁に留めているテープは、あまりの暑さで溶けきっていた。
 どこが粘着面か分からないほどベッタベタなのに、ポスター1枚にかかる重力すらも支えきれない能なしテープをはがす。

 もちろん貼り返すテープも同じものだ。学校祭が終わる頃にはポスターはただの紙くずと化して床に散らばっているのだろう。

 昨日、今日と何回くぐったか分からない、立ち入り禁止の青いスズランテープはガムテープで貼ってあるため暑さで溶けることはなかったが、何だかすごくくたびれているので、貼り直すことに決めた。

 校内にある立ち入り禁止のポイントは限られているが、全階2カ所ずつあるため、移動にすごく疲れる。
 しかし、校内をどう歩いたら1番効率がいいか考えるのは、もうお手の物だ。

 そう時間をかけずに、最後の1カ所まで辿りつく。
 そこで、私は不快な音を聞いた。

 正確には、男子特有の笑い混じりに話すときの、少し上ずった高い声だ。

「いいじゃん! 行こう?」
「ねぇ?」

 次に回る場所を相談しているらしい。立ち入り禁止区域内の、比較的静かな廊下に、男子の声が響く。

 言うまでもなく、私はそういう声を出す男子が苦手だった。
 彼らの傍でせっせと作業をするのは、精神的にクるものがあるだろうな、と想像して、体育館を出てから動き続けていた足が止まった。

(どうせはがれてないだろうし、あっちはいっか)

 1度止まった足には、さっきまで感じていなかった疲労が蓄積していた。

 今から生徒会室に帰るのもダルい。

 そう考えていた次の瞬間、あることをキッカケに、私の足はいとも容易く動き始めた。



「だから、そういうのはいいんだってば!」



 男子の下卑た笑いに混じり、女子の軽いよく通る声が聞こえた。

 あの誘いの言葉は、まさかナンパだったのか。

 女子を助けるのに女が行ってどうする、という疑問を持つ前に、私は彼らの前に姿を表してしまった。

 ナンパをしている光景なんて、見たのは初めてだ。
 もちろん、それを嫌がる女子の救済に入るのも。

 男子2人の視線を感じながら、その子と目が合ったとき、何を考える前に、私の口からは自然と言葉が発せられていた。


「どうしたの? 探したよ?」


 咄嗟の芝居を打つとともに、「あ」という驚きの声が私の中に飲み込まれた。

 さきほどまで嫌悪の対象だった男子2人は、私の中学校時代のクラスメイトで、絡まれていた女の子は、隼人の元カノだった。



 本野実希(もとの みき)。


 隼人の元カノで、今も彼の心を掴んで離さない、この辺りでは有名な美少女。
 有名な理由は、単純に可愛い、ということだけではなかったが、私は詳しくは知らない。
 断片的に聞いた情報だけで、もし彼女の人格を判断すれば、間違いなく良い印象は抱かない。
 そういう女の子だ。

 だけど。

 これもまた偏見だが、隼人が選んだ女の子が、全くの悪人であるとは思えない。
 それどころか、隼人が好きな子っていうだけで、好感度は上がる。

 私からすれば謎の可愛い女の子。

 つまり要約すれば、私と本野実希は「探したよ」なんて言える間柄ではないのだ。

 本野実希は、一瞬困惑の表情を見せて、すぐに私の意図を理解した。その証拠に、彼女は小さく私に向かって頷いて見せた。

 しかし先に反応したのは、元クラスメイトの男子たちだった。


「えっ!? 夏菜!?」
「うわぁ、久しぶり!」

 人なつっこい彼らは、私に対しても明るく接する。
 こういう人たちは、1度関係を持ちさえすれば、そこまで警戒をしなくても、ちょうどいい距離を保ってくれる。

 私は、彼らが保つ距離に、何も考えずに身を置けばいいのだ。

「久しぶり。元気そうだね」
「おう! なに、夏菜、実希ちゃんと知り合いなの?」
「うん」

 素知らぬ顔で嘘を吐く。
 私が一方的に名前と顔を知っていただけだ。

 これ以上嘘を重ねるのが辛くて、私はこの場の収拾を急いだ。

「私が先に回る約束してたの。そっちは2人で回って」
「え~!? せっかく実希ちゃんに会えたのにさー。実希ちゃんも夏菜の友達なら、俺たちのこと怖くないでしょ?」

「え、いや、まぁ、それはそうかも、だけど」

 しまった。
 逆に逃げ道をふさいでしまったか。

 次に言う言葉を考えていると、彼らのうちの1人が、本野実希の肩に触れようとした。

 男の大きな手が、彼女の華奢な身体に迫っていくとき、私は悲しそうに笑う隼人を思い出して、思わず彼の手を払った。

「止めて」

 思ったより高い声が出た、と自分では感じた。
 それだけ切羽詰まって興奮していたのだ。



 隼人ですら、本野実希の隣に並ぶことが許されないのに、

「あなたたちが触っていい女の子じゃないのよ」

 本野実希を前にして、私はこれっぽちも彼女のことなんか考えていなかった。


 しばらく言葉に詰まった彼らを、私は怒らせたかと、正気に戻って怖くなる。

「・・・・・・なんだよ、冗談じゃん。そんな怒んなって」
「そうだよ。まぁ、ごめんって。ね、実希ちゃんも」
「あ、うん」

 しかし、意外にも彼らの反応は明るくて、私は思わず面食らう。

「てか、夏菜、生徒会入ったんだ」

 私のTシャツに付いている腕章を見て、元クラスメイトは言う。

「うん」
「大変そうだねー。頑張ってー?」
「ありがとう、そっちもね」
「また今度、中学の皆と遊ぼうよ。連絡とる」
「うん、いいね。じゃあ、また」


 最後は、同級生らしい、随分と平和的な会話をして別れることができた。

 小さな違和感が残る。

 しかし、そんなのはすぐに忘れるものだ。





「ありがとう、夏菜ちゃん。助かった~」

 緊張の解けた本野実希の声は、女の子らしく優しく可愛らしかった。

「夏菜でいい。こちらこそ、勝手に友達のフリしてしまってごめん」
「いいの! だって、今から友達になればいいんだもん」


 なるほど、嘘は事実に変えてしまえば、罪にならないと。

 彼女がそんなことを考えているかは知らないが、本野実希なら無意識にそういうロジックを組み立てていそうだ。


「・・・・・・そうだね」
「私のことも実希でいいよ。この後時間があるなら、一緒に回らない?」
「あぁー・・・・・・」

 腕時計を確認して、これからの仕事を頭に思い浮かべる。どう工夫しても、学祭を楽しむ時間的余裕はなかった。

「ごめん。これから生徒会執行部の仕事があるんだ」
「あぁ! そっか、夏菜、生徒会に入ってるんだもんね」
「うん」

 全ての男がほだされそうな笑顔を、私に向ける。
 
 もったいないよ、と言いたかった。誰彼かまわずそんな表情を向けては、もったいない。

 その笑顔のまま、実希は自然となんの躊躇いも感じさせずに、私に尋ねた。


「隼人は元気にしてる? てか話す?」


「うん。隼人とは、友達だよ」
「本当に?」
「うん。すごく話すし、隼人は元気だよ」


「良かった」

 どの口が言うのだろう。

 好きな人と結ばれず、また想いを忘れきることもできないのに、元気であるわけがない。

 私と違って、隼人は一旦、彼女を手中に収めることに成功してしまったのだ。

 夢から覚めた彼に、残るものは何もないから。
 未だに、唯一形のある、あなたにすがってしまうんだろう。


 よかった。
 あのとき、彼らに実希を触らせなくて。
 例え、彼女が自ら誰かに触らせていても。


「ねぇ、実希の連絡先教えて?」
「あ、いいよ~」


 大収穫だ。

 こんなことをしている間に、私は直に告白したことも、フラれたことも、忘れていた。
 私にとっての大事なものの順位が、次々と塗り替えられていく。



 私はこれから、それに、気づかないまま、長い期間を過ごすことになる。