お茶でも飲もうと私がよっこいしょ、と重いお腹を持ち上げたとき、

「え!」

と、湊くんの叫び声が聞こえた。

「━━━━ああ、はい。━━━━あー、そうでしたか。━━━━いえ。━━━━はい。━━━━はい。━━━━はい。━━━━━━よろしくお願いします。はい、失礼します」

真っ青な顔で、湊くんは電話を終えた。

「どうしたの?」

「始球式、やることになった」

「断るんじゃなかったの?」

「藤澤さんがさ」

「藤澤さん?」

「野球選手の藤澤(あさひ)さん。俺のこと『知ってる』って言ったらしいんだ」

湊くんと神宮球場で観戦していたとき、たまたま隣に座っていた女性と親しくなったことがあった。
柑奈(かんな)さんというその女性は、実はセカンドを守っていた藤澤旭選手とお付き合いをしていて、藤澤さんも含む四人で楽しく飲んだのは二年ほど前のことだ。

「あれ? でも、湊くんが棋士だってことは言わなかったよね。なんか湊くん恥ずかしがっちゃって、『会社員です』なんて嘘ついたから」

「そこの事情は知らない」

「藤澤さんのご指名?」

「いや、連盟内で俺が藤澤選手と友達だって噂になってて、それで本人に確認したらしい」

確かに一度一緒に飲んだけど、人見知りの藤澤さんと不器用な湊くんでは、“友達”になるにはあと三世紀くらいかかりそうだ。

「私が前郷さんに、サインと写真見せびらかしちゃったせいかな。あのあと藤澤さんが新人王獲って、前郷さん騒いでたもんね」

スマホを操作しながら言うと、湊くんはローテーブルに突っ伏した。

「藤澤さん、自分の発言力の大きさ、絶対わかってない! 『知らない』って言ってくれてもよかったのに」

「正直に『一緒に飲みに行った』って答えたみたいだね」

「律儀すぎる」

「湊くんグローブ持ってないから、藤澤さんから借りたら? 左利き同士だしさ」

「そんな図々しいことできるわけないでしょ」

「でももう約束しちゃった」

「……あやめ、さっきから誰とやり取りしてるの?」

「柑奈さん」

「は? 柑奈さん?」

「去年藤澤さんと結婚して、今妊娠中なんだって。よかった、別れたりしてなくて」

「なんで……」

「あのとき連絡先交換したもん」

絶句する湊くんをよそに、私は柑奈さんと旧交をあたためる。

「柑奈さんも一緒に行くって。『とりあえず来週あたりお茶しましょう♪』送信!」

そうして、お借りした貴重なグローブに怯えつつ、湊くんは練習を積んだのだった。