走って走って、階段手前の廊下で湊くんを発見した。
帰るところだったなんて危なかった。

「湊くーーーーーん!」

逃げられると困るから、近づくまで声をかけずに飛びついた。

「うわああ! なんだ、今井さんか」

湊くんの腰にしがみついているので、頭の頂点に声が降りた。

「湊くんが来てるって聞いて、コンビニから走って戻ってきた。私がいない隙を狙ったな!」

「今井さんがどのタイミングでコンビニに行ってるかなんて知らないよ。たまたまだって」

無事に捕獲できたのだから、もう何でもいい。
どさくさ紛れに抱きついた腕は離さずに見上げた。

「今日は何の用事?」

「ちょっと本社に用があったから、ついでに寄った」

「私に会いに?」

「……いるとは思ってた」

「そこは『会いたかった』って言ってよ。ちょうどよかった。お昼ご飯食べに行こうよ。お腹すいちゃった」

相変わらずしがみついている私の頭に、湊くんの左手がやさしく乗った。

「あの、今井さん」

「何?」

下から見上げる湊くんの顔は、前髪に邪魔されずによく見える。
その目に、戸惑うような揺らぎが見えた。

「どうしたの?」

「あのさ」

「うん」

何度も口を開いては閉じて、何かとても言いにくいことを言おうとしているのだと容易に想像がついた。
緊張で私の表情も固くなる。
そうだ、この左手はいつも私を拒む手だった。

「ごめん。今日はすぐ帰るんだ」

「えーーーーっ! ご飯買わないで帰ってきたのに!」

「本当にごめん」

湊くんは譲らないところは絶対に譲らない。
私は湊くんが許してくれる範囲内で、甘えているに過ぎないのだ。
いくらしつこい私でも、そのラインは越えさせてもらえない。

落ち込む気持ちに連動して腕の力が緩む。
がっかりした表情を隠さずに湊くんを見上げると、湊くんも悲しげな顔をしていた。
いつも淡々としている彼には、それ自体とても珍しいことだったのに、私はお昼ご飯のことだと思い込んでいた。

「今井さん、元気でね」

一瞬だけ、湊くんの両腕がぎゅっと私の頭を抱えた。
びっくりしているうちに、湊くんは階段を降りて行ってしまって、腕の中を味わうことさえできなかった。

「来月研修でそっちに行くから!」

慌てて駆け寄って階段の上から叫んだけど、湊くんは何も答えず、少しだけ私を見上げて帰って行った。