「自分が誰なのかわからないのは、苦しいからな……」

「え……」


そう言った雅臣先輩の表情が陰ったような気がした。

今の言葉は、私に向けて言った言葉のはず。

でもなぜか……雅臣先輩自身に言ったようにも聞こえた。

それにこの表情、どこかで見たことがある。


どこでだっけ?
そう、確か──部室で彼に再会した時だ。

ううん、それだけじゃなく時々、先輩は憂いを帯びた顔をする。


戸惑いながら「雅臣先輩?」と声をかけると、今まで見ていたものが幻覚だったかのように、雅臣先輩の表情はコロッと笑顔に変わってしまった。


「俺がいるうちは、自分には何もないだなんて言わせないからな」

「あっ……」


鍵盤にそっと指を乗せるように、胸がトクンッと澄んだ音を鳴らした。

あぁ、こういう時に思い知らされる。

雅臣先輩が心の底から好きだなって事。


「俺は清奈のために、ここにいるんだからな」

「私のためって……大げさですね、雅臣先輩は」

「ははっ、でもこれが本心だ」


不思議。中学生の時より、今の方が雅臣先輩への想いは強い。

昔からの恋心が大きくなるというより、もう一度雅臣先輩に恋をしなおしたみたいな感覚に似ている。

私が私を否定するたびに、何度も何度も君はすごい人だ、ここにいていんだよって、声をかけてくれる。

そんな今の雅臣先輩が──私は好きだ。

淡く朧気だった恋心は昔よりも確かな輪郭を持って、この胸の中で強く存在を主張していた。