そう、それは──〝藤原 景臣〟ではなく、〝藤原 雅臣〟として。

待っているだろう人が、待っていなかったらきっと彼女は傷つくだろうから。

記憶を失う前の雅臣も、清奈の悲しむ顔だけは見たくないと思っていたはず。

だから彼女が来るまでの2年間、俺は必死に古典を学んだ。

雅臣が読んでいた和歌集も、平家物語や枕草子、とにかく手当たり次第に古文を読み漁った。

こんな事で、許されるだなんて思っていない。

俺がいなければ、間違いなくふたりは結ばれていただろう。

罪悪感が、心臓を何度も貫く。

でも、清奈のためになにかをしている時間は、罪悪感に今にも壊れそうな俺の心を少しだけ救ってくれた。

それがなぜなのかはわからないけれど、雅臣の話を聞いていた時から、俺は彼女に会いたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。


そうやって2年間、待ち続けた。

俺じゃない俺がした約束を信じて、彼女が部室の扉を叩くその瞬間を待ち望んでいたのだ。



「だから、今の雅臣は清奈の事を覚えていない」


隣に座る清奈に、俺は残酷な現実を告げる。

清奈には包み隠さず真実を話す事、それは彼女をここまで追い詰めた俺の責任だと思ったからだ。

ただ、ひとつだけ言えないことがある。

清奈を待ち続けた2年間。

始めは償う相手に会う事が怖くて、苦しかったはずなのに、いつの間にか……。

会った事もない清奈の事を考えると、心が温かくなるのを感じていた。

──そう、まるで恋文だけで恋に落ちた平安時代の人間みたいに。

四六時中、どんな女の子だろうって彼女の事を考えていた気がする。

清奈の存在が俺の心の中でどんどん大きくなって、気づけば顔も知らない女の子に許されざる恋をしていたのだ。


『逢はむ日を その日と知らず 常闇に
いづれの日まで 吾恋ひ居らむ』


逢える日をいつとも知らず、無限の闇の中で。

私はいつまで恋しているのだろう。

そんな和歌を茜色に染まる部室でひとり、詠んでしまうほどに。

俺は君を──……。