(この腕時計、婚約の記念にお揃いで買ったんだよなぁ)

白い革ベルトに白蝶貝のフェイス。私にはかなり背伸びした感じの、大人っぽい時計だった。光一さんは同ブランドのメンズラインのものを選んだ。
元々は婚約指輪のお返しに私が時計をプレゼントするはずだったのだけど、光一さんがせっかくならペアにしようと提案してくれたのだ。

(嬉しかったなぁ。あのときは、こんな波乱万丈な結婚生活になるなんて想像もしてなかったな)

仮面夫婦に愛人・隠し子疑惑なんて、ヘビーすぎて想像できるはずもないけど。
だけど……楽しいことも、幸せな瞬間も、たしかにあった。ふたりの距離が近づいていく喜びも、光一さんの不器用な愛情も、たしかに感じていたのに。

(やっぱり、もうダメなのかな)

やけに感傷的な気分で、光一さんとのこれまでを思い出していた。まるで、最後に見る走馬灯みたいだ。

そんなんだから、私はまったく気がついていなかった。不審な影が後をつけていることに。

光一さんに『ひとりで動くなよ』と忠告されていたのに、いつもの習慣で人気の少ない裏道を通ってしまっていた。

突然、後ろから伸びてきた手に口を塞がれる。
(えっ……なに?)
わずかに、横目で見えた犯人の顔には見覚えがあった。
以前、受付にクレームを言ってきた取引先の男、新庄だった。
(うそ。なんで、この人が今さら?)

新庄は私を羽交い締めにしながら、ブツブツとなにかをつぶやいている。抑揚のないくぐもった声のせいか、最初はなにを言っているのかよくわからなかった。

「男と同棲なんてダメだ。すぐにやめろ、やめろ。やめろよっ」
新庄の声は徐々に大きくなり、興奮気味にやめろ、やめろと叫んでいる。

(同棲?なにを言ってるの、この人)

新庄は腕を外し、ゆっくりと私の前に回った。彼は少しずつ少しずつ、近づいてくる。体は自由で、逃げられる状況になったはずなのに、私の足は一歩も動かなかった。突然のこの状況を、頭も体も理解できていなかった。

「君はそんな軽い女じゃないはずだ。清楚で、優しくて……なにより俺を愛しているはずだろう?」

新庄は狂気に満ちた笑顔を浮かべ、私の頬に手を伸ばした。
新庄の手は血が通っているとは思えないほど冷たくて、私の全身まで凍ってしまうような、そんな錯覚を覚えた。

(……この人、おかしい。怖い、怖いよ)
恐怖のあまり意識が遠のきそうになるのを、唇をかみしめて、必死でこらえた。かわききった口の中に、血の味が広がる。

「あんな男の家は早く出ていけ。元の君に戻るんだ」

その一言で、謎はあっさりと解けた。

(あの張り紙はこの人だったのか。光一さんの恋人なんかじゃない)

「いまならまだ、すべて許してあげるからね。さぁ、僕とふたりきりで暮らそう」
新庄は陶酔したような表情で、私を抱きしめようと両手を広げた。

この道は人気がないけれど、すぐ隣は車も人もたくさん行き交う大通りだ。
大声を出せば、誰かが気がついてくれるかも知れない。
そう思うのに、声帯がひきつったようで、うまく声を出すことができない。
声の出し方を忘れてしまったみたいだ。

(誰か、誰か……光一さん!)