そうして、ようやく私は先生から唇を離す。目を開けると、いつの間にか視界がぼやけていた。

温かい汁が頬を伝う。自分が涙していること、よく見ると先生も頬を濡らしていることを知った時、このまま彼と世界を違えるのがどうしても惜しく感じた。思わず首元から刃を離してしまいそうになるが、なんとか踏みとどまる。


先生は泣いていても綺麗だな。初めて見た先生の涙を、嬉しく思った。


ゆっくりと息を吐き出す。
せめて最後は、彼の目に綺麗に映っていたい。そんな思いを込めて、私は唇の両端を持ち上げ目を細めた。

ちゃんと、笑えているだろうか。


「先生、愛してる」


その後、触れていただけの包丁をぐっと押し込み、勢いよく一方向に動かした。確かに、手応えがあった。

音を立て、握っていた包丁が床へ落ちる。岸田に刺された時よりも鋭い激痛が私を襲う。痛い、痛い。そんなことを口に出す余裕すらも無い。立っていることすらままならず、私は膝から崩れ落ちた。それを、先生が受け止めた。


─────動かないでって言ったのに。


心の中で呟きながら、先生に体を預ける。涙とはまた別に、視界が定まらなくなっていく。端から徐々に黒く染まりゆく世界を見て、こんな感じなんだ、と思った。首に触れて手を見ると、手とも認識出来ない視界の中で真っ赤な塊が見えた。


岸田も、こんな風に最後を終えたのだろうか。そう考えると、少し可哀想だなとも思った。向こうに着いたら、謝らなくてはいけないな。そうだ、『月光』を書いたという先生の友人にも会えるだろうか。馬鹿みたいに、そんな呑気なことを頭に浮かべていた。


先生が何やら呟いている。しかし何を言っているのかわからない。機能しなくなっていく脳が、先生の言葉をかき消している。
悲しんでくれているのだろうか。こんな風にぼやけた視界では、表情すら認識出来ない。今、どんな気持ちでいるのだろう。


想像して、私は笑った。


どんどん、意識すら保っていられなくなる。力が抜けていく感覚がする。もうすぐ死ぬのだ。そんなことを嫌でも感じ取る。
先生、たくさん迷惑をかけてごめんなさい。愛している、心から。今も、いつまでも、ずっとあなただけを愛している。


体が重くなっていく。やがて視界が全て闇に染まった時、仕方なく目を閉じた。しかしそのとき、ずっと認識出来なかった先生の言葉が意識を手放す手前でようやくはっきりと聞こえた。


「死ぬな、紗和(さわ)!」


─────あれ。


けれど不思議なことに、それは自分の名前ではなく、知りもしない赤の他人の名前だった。