「先生」


ある日の夕方、私は先生にずっと黙っていたことを思い出した。リビングの机で本を読んでいた先生が、私の声に反応して文庫本を閉じ顔を上げる。


「この間借りた『月光』のことなんですけど」


そこまで言うと、先生も事態に気付いたのか頬杖をついて考え込んだ。


そう、先生に借りておいた『月光』という本を、飛び出してきた家の中に置いてきてしまったのだ。早く相談せねばとは思っていたのだが、色んな事柄が邪魔をして、タイミングを見失っていた。


家に戻れないことはない、しかし鍵がない。家のポストには万が一何かあった時のためにスペアを用意してあったはずだが、まだそれが残っているのかどうかは分からない。

滅多に会わない母に鉢合わせてしまうかもしれないというリスクもあった。あの母のことだから、きっと会ったところでなんでもないふりをされるだろうが、それだけとも限らない。またあの愛人がいても、それはそれで厄介なのだ。あんな思いをするのは、一度だけで十分である。


物理的な意味で家の中に入れるかどうかは別として、全ての可能性を考えると、相当の意思が必要だった。


最悪の場合、本なら出版社から取り寄せれば簡単に新しいものを手に入れられるはずだ。しかし、私に図書室の業務のことはよく分からないので確信は持てない。


「あのね、秋奈」


先生は深刻な顔をして言った。


「あの本を、市立図書館から取り寄せたというのは実は嘘なんだ」


どういうことだろう、と私は思った。

『月光』は、過去に先生が読んでいたものだ。それを手に入れたくて私も書店を巡ったが、どこに行っても手に入れることは出来なかった。先生に相談した時、学校の図書のシステムを利用すればいいと教えてもらった、そのはずだ。

あれが本当でないとなると、本当の仕入れ先や、そもそもなぜそんな嘘をつく必要があったのかという疑問が真っ先に浮かぶ。
そう問う前に、先生の方から口を開いた。


「あれは、僕の知り合いが趣味で書いたものでね。ただのもらいものだから、どこにも売っていないんだ。本になっているのは、その人が実費で製本を行ったからで」


「じゃあ、その人に」


「だめだよ」


私の言葉を遮り、先生は瞼を閉じて言う。


「その人、もうずっと昔に死んでるんだ」