キッチンから出てきて本棚の前で立ち竦む私の元へやってくると、先生は頬に触れた。


「何を思ったのか知らないけど」


触れた手が、そっと下へ滑り落ちる。
手のひらの感触が無くなり、頬から離れてしまうと思いきや指先だけが口元の辺りで繋がっていた。するとその指先は、触れたまま更に下へ落ちていく。顎の骨格を描くと同時にぐっとそれを持ち上げた。


先生と目が合う。交わる視線とあまりにも近すぎる距離に心臓は大きな音を立てて脈を打った。


「僕が君に愛想を尽かすとでも?」


先生は言った。
はい、ともいいえ、とも言いづらい質問に、返事を渡すことができない。

私の心が先生にあることを、彼は分かっている。でなければこんな意地悪な質問を出来るはずがないだろう。しかしこれで確信した。先生は私に決して嘘の関係を築いているわけではないのだと。


「そんなことを思うのなら、晩のメニューを一緒に考えて欲しいくらいだ」


そう言うと、先生は再びキッチンへと入っていく。そんな彼を見て、私はくすりと笑った。


よかった、先生におかしな所などありはしない。岸田があまりにも奇妙なことを言い残したため、少し不安になってしまった。何も心配することは無いのだと思うと、私は先生の元へ駆け寄っていく。

「シチューがいいです」と言うと、先生はふーんと冷蔵庫を探り始めた。


こんな風に誰かと献立を考えるのもいつぶりだろうか。家ではほとんど自分が一人で何でもこなしていたため、記憶に残っている思い出はとても僅かだ。

高校生になってまでこんな些細なことに幸せを感じるのも、随分子どもかもしれないとさえ思ったが、今が良ければ何でもいいと思った。


家を出た当初は、先の見えない現実にどうにかなってしまいそうだった。しかし、こんな現状があるのなら、また運命だったのかもしれないと考える。お願いだからいつまでも、誰にも邪魔されない、こんな素晴らしい日々がずっと続きますように。


心の内でそう願っていた。