先生は「うーん」と唸る。


「まぁ、あったと言えばあったし、そうでもないと言えばそうでもないかな」


秋奈は知らなくていい、と先生は言う。
その言葉に多少頬を膨らませて見せたが、先生は薄く笑っているだけだった。


先生の過去を、私はほとんど知らない。それだけじゃない、先生は、なかなか自分のことを語ってくれないのだと最近気付き始めた。

しかし、先生に関してではないことなら、なんでもすぐに答えをくれる。
例えば勉強だったり、何か秋奈の困っていることだったり、欲しい言葉は全部。そんな回答なら先生は難なく教えてくれるというのに、この境界線には一体なんの意味があるのだろう。


その時、今日の岸田の言葉がふと頭に過った。胸の奥で、なにか良くないものがざわつき始める。


────騙されているだけだとしたら?
────柏木さんを利用しているかもしれないよ。


だめ、だめ、だめ。
そんな訳がないと、私はすぐに浮かんだ言葉を取っ払った。あの優しい先生が、愛しいこの人が、そんな事をするはずがないと。そう思っていたかった。


「先生」


震える声で、先生のことを呼ぶ。
冷蔵庫の中身を確認していた先生が、こちらを振り返って「どうした?」と言った。


「先生は、私をどう思っていますか?」


急に何だ、と思われたかもしれない。先生は予想通りきょとんとした表情を浮かべている。

自分でも、改まってこんなことを聞くのもどうかしていると思う。しかし、そうせずにはいられなかった。今の私には、倉本翔という目の前の人間の心が、確かに自分に向いているのだという確証がどうしても必要なのだ。でないと、岸田の言葉で、信じたくないような仮の事実に押しつぶされてしまう。先生が何も語らないのは、全て自分に落ち度があるせいだとは思いたくなかった。


ぎゅっと手を握る。怖い、そんな感情がもう喉の奥から溢れそうになっていた。私を見て、先生は意地悪な笑みを浮かべる。