一瞬、冗談で言っているのかもしれないとも思ったが、あまりにも真剣な彼の表情に本気なのだと気づく。

空っぽだった私を何よりも一番に愛で満たし、また行き場を無くした自分自身を自ら守ってくれている先生に何の疑いをかけようというのか。岸田の想像するありもしない事実に驚きを隠せなかった。


「先生は、岸田君が考えているような人じゃないよ」


岸田の妄想を何とか撤回しようと私は答える。しかし何かまだ頭の中で引っ掛かっているのか、岸田は納得のいかない様子だった。


「元からあの人は女子に人気が高い。そんなのわかりきった顔だろ」


「どういうこと、何が言いたいの」


「騙されているだけだとしたら?」


「何も騙されてない」


「柏木さんを利用しているかも知れないよ」


「岸田君!」


あまりにも無神経な彼の言い草に、流石に腹を立てた。“それ以上は言わせない”そんな意味も込めて岸田のことを無言で見つめる。

しかし、その時私の中である一つの光景が頭に浮かんできた。数日前の出来事、図書室の書庫から聞いた岸田と先生の会話。一部だけ何も聞こえなかったあの瞬間の記憶が、一瞬にして流れるように脳裏を過った。


やはりあの日に、何かあったのだ。

そう言えばあの時、先生も少し様子がおかしかったようにも思う。確かあの時先生は、“焦っていた”そう言っていた。もしかするとあれは、岸田との会話の中で生まれた別の感情を隠すための嘘────先生が嘘なんて、と思いもしたが、なんとなく辻褄が合っているような気がしてならなかった。

でなければ、私と先生の関係を知らない岸田が"柏木さんを利用している"などといった特定した例えを口に出すはずがない。


しかし、あの日のことを岸田に直接問い質すことは出来ない。それをしてしまえば、私があの時書庫にいたのだということも、先生との関係まで明らかになってしまう。

私は決心して言った。


「先生と、何かあったの?」


一番何にも影響を与えない、無難な聞き方だろうと自分でも感じた。

緊張からか手に汗が滲む。岸田に早く立ち去ってくれと思っていたはずの感情もどこへやら、目の前の重要な問題に意識を奪われていた。

しかし、岸田はすぐに平然とした表情に戻って言ったのだ。


「いいや、特に」


「え、でも」


「始めに言ったでしょ。俺の想像だって」


────失礼なことばかり言って悪かった。岸田はそう言うと「もう、帰るわ」と私の元からすんなりと離れていった。
遠ざかる背中に向けて、さようなら、と言葉を放つ。


何故だ、先生も岸田とほぼ同じ反応を示した。
私は触れてはいけない話題に足を踏み入れようとしていたのだろうか。それともあの時の会話は、本当に意味をなさない他愛もないものだったのか、どちらとも確証がつかないまま、考えることを諦めた。


見えもしない事実を考えていたって仕方がない。今自分が最もやるべきことは、早くこの場を離れてしまうことだった。岸田が見えなくなると、私は母に見つからぬうちにと早々に方向を転換する。


────先生の家に帰ろう。


今の自宅に向けて、私は歩く足を普段の倍に速めて進んだ。