当然の如く、岸田は私が先生の家で暮らしていることを知らない。本当なら近寄ることすら億劫なこの場所へ帰宅するなどもってのほかだったが、彼と帰宅を共にする以上嘘でも来なければならなかった。母はほとんど家を空けていると言っても、今度いつ日中に顔を出すか分からない。今かも知れないその時に怯えながら、私は岸田に向けて“早く帰ってくれ”と聞えない声で訴えていた。


しかし、岸田はいつも私の望む反対をゆく。今回だって、まだ家の前から立ち去ろうとはしてくれなかった。


「どうしたの」


耐えきれなくなって呟いた。何か重々しい表情で岸田はこちらを見ている。口を開こうとしない岸田を、焦れったく思った。


「言ってくれなきゃわからない」


ともかく、私がこの場から離れるためには岸田の胸の内を引きずり出すしか方法はなさそうだった。────早く。そんな思いが私の心を占めていく。

するとようやく、岸田は口を開いた。


「脅されているとか、セクハラを受けているわけではないんだよね」


「…は?」


唐突な質問に私は唖然とした。一体どんな思い違いが起こって岸田はそう思ったのか不思議に思う。なんのことだ、言葉に出しはしなかったが岸田はそんな私の表情を読み取ったのか「やっぱりなんでもない」と言った。


「ちょっと気になることがあっただけなんだ。そうじゃないなら、別にいい」


「気になること?」


思わず聞き返す。岸田が気まずそうに答えた。


「例えばだけど、柏木さんに好きな人がいるっていうこと自体嘘なんじゃないかと思って」


「嘘?」


オウム返しのように、私は彼の言葉を復唱する。


「本当に俺の想像の中での話だけれど、誰かが、柏木さんに対して良くない行為を迫っていて、でも柏木さんは脅されていて助けを求められないんじゃないかって。俺に興味を示してくれないのは、誰かを想っているからじゃなくて、他にもっと大きな気がかりがあるから、とか」


そう言うと、岸田は俯いた。

岸田の言いたいことがまるでわからない私は、ただ首を傾けることしかできない。もしや、母の愛人との出来事を言っているのかとも思ったが、あの時家の扉は閉めていたし、外まで響くほど大声を上げた訳でもない。
だとするならば、岸田が指しているのはあの日ではないはずだ。


「どういうこと」


直球に私は問うた。すると、岸田は意を決したような強い表情で言った。


「図書室の、倉本先生に何もされていない?」


────え?


彼の言葉に、私は次に放つ言葉を失った。この人は一体、何を言っているんだろう。