「お待たせしましたー」

笑顔で朝餉を運んできてくれたのは奈津芽さんだった。
陽成さんは入って来たお客さんにお水を出している。

この店に来てこんなことは初めて。
お味噌汁の具が何だったのか、たった今食べたはずなのにわからない。
薬味の乗ったお豆腐に、お醤油を差すことも忘れて口に運ぶ。
そうして私はぼんやりしたまま貴重な朝餉を食べ終えた。

日々亭は人気店。
朝一番に時間が取れなければ、陽成さんと話す機会はもうない。
今日はお会計も奈津芽さんで、それは別に陽成さんが私を避けたわけでもなかった。
それでも気持ちは更に落ち込む。

「ありがとうございました。あ、そうそう! 絵麻ちゃん、これ忘れ物」

そう言って、奈津芽さんが紙袋を差し出した。
一度受け取って覗いてみると、中には箱が入っている。
だけど私には全く覚えがない。

「いえ、これ私の物じゃありません」

「あれ? そうなの? 陽成が『灰川さんの忘れ物だ』って言ってたから。ごめんなさい。こっちの勘違いだったみたいね」

正直なところ、それどころではなくて。
なんとか作った笑顔で「ごちそうさまでした」と言い捨てるようにして、急いで店を出た。


会社を出ていく人の流れを、食べる気持ちが湧かないおにぎりを弄びながら見守る。

なんでランチに向かうOLって華やかに見えるんだろう?
出勤時や退勤時にはないきらめきが見える。

隣の課の国松(くにまつ)さんが、今日もまた違う女の子と連れ立ってランチに出ていく。
女の子のパンプスは真新しく、あしらわれたリボンまで踊っているようで可愛らしい。
心の中からズタズタの私には、エナメルの光沢さえ眩しかった。

舞踏会に憧れるシンデレラって、こんな気持ちだったのかな?

俯いた先にはガラスではなくマジックを塗った靴が見える。
王子様だって拾ってくれないようなボロボロの靴。

「灰川さん、例の“魔法”切れ?」

パソコンの電源を落とした平雪(ひらゆき)さんが、隣の席からからかい混じりに聞いてきた。

「そもそも、魔法なんて不確かなものに踊らされた私が悪いんです」

突拍子もない私の発言に、平雪さんはなぜか強く頷いた。

「魔法って、どこか与えてもらうものっていうイメージだよね。なんか弱そう。私なら代償払った呪いでいいから強い力がいいな」

ランチに向かう流れを見つめながらの言葉には殺気すら感じる。

「平雪さんって、国松さんが好きなんでしたっけ?」

「国松さん格好いいー!」「付き合いたーい!」そう公言している彼女にしてみれば、あのリボンパンプスはさぞ面白くないだろう。

ところが色白の顔の上で、艶やかな赤い唇がくっきりと不敵な弧を描いた。

「とりあえず、そういうことにしておいて」

私も強い力が欲しい。
いや、強い気持ちが欲しい。
すべてを受け止める強さが欲しい。
私にとってそれは魔法のようにふわふわと掴みどころのないものではなくて、積み重ねた確かな私自身。
自分の脚で歩いた足跡。

「代償か……」

どういう結果になろうとも、明日返事をもらいに行こう。