給料日である今日の朝。
まだお金を下ろしてもいないくせに、私は足早に日々亭に向かった。
日々亭に行けなかったこの三週間、陽成さんに会いたくて会いたくて。
職場の帰り道、真っ暗な日々亭の前で、何度も声に出さずに陽成さんを呼んだ。
気持ちがはやり過ぎて、着いたのは開店の十分も前。
時計を見ながら摺りガラスの引き戸の前に立っていると、大きな影がガラガラとそれを開けた。
「おはようございます、灰川さん」
「あ、おはようございます」
「ちょっとバタバタしてるけど、どうぞ」
「え? いいんですか?」
陽成さんはわざと少し困ったような顔をする。
「よくないけど、いいですよ」
その言い方が店員さんらしくなくて、特別扱いしてくれてるのかな? って勘違いさせられる。
図々しく入り込んだ私を、奈津芽さんも笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、絵麻ちゃん。久しぶりねえ」
「おはようございます」
店内は出汁のいい匂いが充満していて、冷えた身体がほぐれていく。
いつもの私なら深呼吸をするところだけど、今日だけはそんな余裕なかった。
当然誰もいない店内で、私はまたカウンターの一番端に座る。
その位置だと、ほぼ確実に陽成さんがお水を出してくれるから。
「いらっしゃいませ」
改めて言いながらコトッと薄いグラスを置いた、その大きな手を、素早くぎゅっと握った。
水仕事をしていた手は、冷たくて少し湿っていた。
「好きです」
余計なことを差し挟む時間は一瞬もない。
他のお客さんが来る前に、奈津芽さんが振り向く前に、しっかりと目を見て伝えた。
次の瞬間奈津芽さんが近付いて来て、私は慌てて手を離す。
驚いた表情のまま、陽成さんもすぐに仕事に戻り、私の手には湿り気だけが残された。