七時半頃になると店内はいっぱいになってしまって、食べ終えた私は早めの出勤をすることになる。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったです」
「いつもありがとうございます」
お会計をしようとレジに向かうと、包丁を洗っていた手を止めて、陽成さんがついて来た。
「わっ!」
突然右足が引っ張られ靴が脱げる。
つんのめった私はストッキングの足で身体を支えた。
すぐ後ろを歩いていた陽成さんが、私の踵あたりを踏んだらしい。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「大丈夫です。私は何ともありません」
「………あーーー」
脱げてしまった靴を拾った陽成さんが、絶望的な声を発する。
「あの、どうしましたか?」
片方靴がないからバランスを欠いた体勢のまま尋ねると、陽成さんは私の靴をじっと見たまま眉を下げる。
「すみません、ここが……」
陽成さんが示した靴のヒールは、少し削れて塗装が剥げていた。
黒い靴だから白く削れたところがよく目立つ。
「ああ、大丈夫です。安物だからこんなことはよくあって」
私は左足の靴を脱いでヒール部分を見せた。
「ここも剥げてしまったけど、マジックを塗って誤魔化してるんです」
驚いている陽成さんの手から靴を受け取り、両方履き直してヒールを見せた。
「ほら、遠目だと全然わからないでしょう? こっちも後で塗っておきますから」
笑って言うと「本当にすみません」と頭を下げつつ、陽成さんも少しホッとした表情になった。
靴のことは災難といえば災難だけど、本当に気にならない。
それよりも、少しだけ陽成さんに近づけたような気がして嬉しかった。
だからわざと一万円を出して時間稼ぎし、思い切って伝えた。
「明日からしばらく来られません」
二回お札を確認した陽成さんが遠慮がちに聞いてきた。
「理由を聞いてもいいですか?」
「実は結婚式が重なってしまって、金銭的に……。お給料日が過ぎたらまた来ますから!」
急に来なくなっても、ここのご飯が嫌になったわけでも浮気をしたわけでもない。
陽成さんにとってみたらどうでもいいことかもしれないけど、それだけは伝えたくて。
お札を握ったまま、少し躊躇って、陽成さんは私に顔を近づけて小声で言った。
「灰川さんならご馳走しても構いませんけど。靴のこともあるから、ぜひそうさせてください」
このご飯が明日からも食べられる! しかもタダで!
それはまったく悪魔の囁きそのものだった。だけど、
「ありがとうございます。お気持ちだけいただいておきます」
好意を無下にしたせいか、少し困ったようながっかりした顔をする陽成さんに、精一杯の気持ちを笑顔で伝えた。
「ちゃんとお金を払って食べたいんです。お金を払うことが愛だと思うから」
好きだからこそ、その対価を支払いたい。
私の支払うお金なんて大した額じゃないけれど、それでもこの店を長く続けて欲しいから。
そのために私ができることは、通い続けることと、「おいしかった」と伝えることと、ちゃんとお金を払うこと。
「あのー」
陽成さんがいつまでもぼんやりお札を握ったままだったのでさすがに催促した。
「あ、すみません」
お釣りと一緒に陽成さんは、
「ありがとう」
とはにかんだ笑顔をくれた。
「ありがとうございます」じゃなくて「ありがとう」と。
それは店員さんがお客さんに向けるものではなくて、陽成さんが私に向けてくれたもの。
━━━━━まさに魔法。
ふわりふわりと曖昧に浮かんでいた恋心に、確かな実体を与えられた瞬間だった。
色の剥げた靴で職場に向かう道すがら、陽成さんの笑顔ばかり思い出していた。
コートのポケットに入れておいた手袋をつけ忘れていて、会社に着いてパソコンの電源を入れる時、手がかじかんで一度押し損ねる。
このままお店に通い続けても、もうこれまでのように、おいしく食べられる気がしない。