いつもより早く“CLOSED”のプレートが出た店の灯りは、まだ煌々とついていて、閉店作業も全部放り出したおじちゃんが、さっきまで私がいたイスにポツンとひとりで座っていた。
「あれ? デートは?」
ドアベルの音にビックリしたおじちゃんは、私を見て更に目を見開いた。
「デートなんてね、誘われた次の日くらいに断っちゃったよ」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
途方にくれたような瞳の奥に、浮かんでは消える期待。
本当に、仕方のない人だな。
だけど仕方ないのは私も同じ。
「おじちゃんは私を世界一きれいにしてくれたんでしょう?」
「うん」
「だったら、おじちゃんもそう思ってくれるってことだよね?」
狭い店内にコツコツと靴音を響かせて、座り込むおじちゃんのすぐ目の前、スカートの裾が触れるくらいの位置まで近づく。
「だったら私でいいんじゃない?」
おじちゃんは何も言わず、惚けたように私を見上げている。
「私が幸せな結婚をしないと、おじちゃんは安心できないんでしょう? だったらおじちゃんが私を幸せにしてよ。そうすれば万事丸く収まるじゃない」
毎日何人もの女の人をきれいにしていくおじちゃんの手が、もし誰かに特別に触れたら……。
そう考えて苦しくなったのは、いつ頃からだろう?
『朝陽が嫁に行く時は、俺が世界で一番きれいにしてやる』
嬉しかったその言葉が、呪いのように辛くなったのはいつ頃からだろう?
お嫁に行く時は、世界一きれいじゃなくていい。
だっておじちゃんが仕上げてくれるってことは、別の誰かに差し出されるってことだから。
だから、世界一きれいじゃなくていい。
おじちゃんが隣に立ってくれる方がいい。
そうじゃないと、きれいになっても意味がない。
靴を脱いで、おじちゃんの膝の上にペタンと座り込む。
「ずっと思ってた。私が真人さんを好きになっちゃいけない理由はないよね」
恋のチャンスが訪れて、迷った。
「行った方がいいんだろうな」って。
「でも行きたくないな」って。
「私がデートしたいのはおじちゃんなんだけどな」って考えて、「おじちゃんはどうなのかな?」って悩んで。
迷って、迷って、ちょっとズルい賭けに出た。
「デート」って言ったら、真人さんは引き止めてくれるんじゃないかな、って。
私は賭けに勝てなかった。
だけど、負けたわけじゃない。
固まったままのおじちゃんの天然パーマに指を絡ませ、ちょっと意地悪な気持ちを込めてぐいっと引っ張った。
「いてっ!」
わざと痛くしたの!
私を引き止めなかった罰だ、コノヤロー!
固くて少し乾燥して、ポカンと開いたままの真人さんの唇に、さっき彼が塗ってくれたリップを呪いのようにベッタリと付けた。
テクニックなんてないからギュウウッと押し付けて、ゆっくりと離れる。
「私だってもう二十二になったんだよ。そろそろ、私と恋を始めませんか?」
唇に移ったリップを指でなぞる。
「……というより、真人さんのせいで今のがファーストキスなんだから責任取ってよ」
やさしい美容師の手じゃ足りない。
あなた全部で私を幸せにしてください。