ようやく呼吸ができるようになった私は、それでも服を離せなくて、元輝は安心させるように私の手を強く握ったままアパートの階段を上った。
古くて暗い階段に元輝はしっくり馴染んでいて、また、この部屋に元輝がいることも、あまりに自然だった。
まるで一年の月日はなかったかのような錯覚に陥るけれど、元輝の日に焼けた肌と少し伸びた髪が現実を教えてくれている。

「そんなに見られると恥ずかしいよ」

慣れた仕草で戸棚を開け、コーヒーを淹れてくれる元輝から、目が離せなかった。
少しでも油断したら、その隙にいなくなるんじゃないかって。

「心配したよね?」

諦めたように口にした元輝に、一瞬頷いて、すぐに首を強く横に振った。

「梨田さんとか、有坂君とか、あと師匠も、時々連絡くれたから」

『東南アジア方面に行ったみたい』

『どういうわけかブラジルにいるそうです』

『ちょっと顔出して帰ったけど、元気そうだったよ』

そばにいなくても、ちゃんと元気に生きている。
それがわかっていたから普通に生活していられた。
心配だったのは、これからどう生きていくのか、将棋とどいういう距離を取るのか、そっちの方だったから。

「千沙乃にはひどいことしたのに、待っててくれたんだね」

待ってた……そういう自覚はなかった。
毎日「今日帰ってくるかもしれない」そういう期待をし続けていたら、結果的に一年経っていただけ。

「帰ってくると思ってたから」

元輝はわずかに目を見開いた。

「泣き切れたら、絶対帰ってくると思ってた」

元輝の苦しみは、私にはわかってあげられない。
あの奨励会を退会した日、そのまま帰ってきていたら、かける言葉はなかった。
私では元輝を救うことはできない。

元輝に光を与えてきたのはいつも将棋で、勝つこと以外に彼を救う方法はない。
そして、その機会はもう永遠に訪れないのだ。

それでも帰ってくると思ってた。
それを疑ったことはない。

「だって元輝は私が好きだもん」

駒を持つときとは違う不器用なあの手のぬくもりが、指先にも、髪の毛一本一本にも残っていた。

「だけど、思ったよりずっと遅かったから」

腫れた目の奥から新たな涙が溢れ出す。
お互い一口も飲んでいないコーヒーをテーブルに置いて、元輝は再び私を抱き締めた。

「ごめん」

「寂しかった」

「ごめん」

「私が他の人と付き合ってたら、どうするつもりだったのよ!」

「ごめん。それは……大丈夫だって思ってた」

「なんで?」

「だって、千沙乃は俺が好きでしょう?」

跳ね返ってきた言葉に不満を露わにすると、楽しそうに手が髪を滑る。

「あとね、実はたまーに様子見に来てた。この窓を見上げて、まだ千沙乃がここに住んでるって確認してた」

笑う元輝の目には、それでもまだ挫折の残滓が色濃く残っている。
これは生涯彼が背負っていくものだ。
消えることのない痛みを、ずっと感じながら生きていくのだ。