誰も知らない彼女

しかし、周りが彼の両手でふさがれている限り、逃げることは難しい。


仕方ない、話が終わるのを待つしかなさそうだ。


心の中でため息をついて目をそらしたあと、視線を再び磐波さんに向ける。


意識したわけではないが、ほんの少しだけ上目遣いで見つめる。


その瞬間、磐波さんの顔が熱湯をかぶったかのように真っ赤になった。


微妙に視線をそらして顔を隠そうとする彼の姿が、まるで拗ねた子供みたいだったので、口もとをゆるめてしまった。



私が笑いをこらえている様子には気づいていないのか、磐波さんは目をそらしたまま肩をぷるぷると震わせている。


そっと顔を覗こうとすると、磐波さんの声が聞こえた。


「そんな顔で見るなよ……。そんな顔で見つめられたらどうすればいいかわかんねぇよ……」


たしかに彼の声は聞こえた。


でも、彼がなんて言ったのかはっきりとは聞こえなかった。


空耳だったのかな。


私の精神がおかしいせいで磐波さんの声が突然聞こえたという現象が起きた可能性も十分にある。


なんて思いながら彼が目をそらした隙に、スルリと体をどけて一目散に逃げようとしたそのとき。


バンッ!


横からそんな音が聞こえてきて、私は思わず目をつぶってしまった。


自分の体が壁にぶつかる感覚に襲われる。


だけど、不思議と痛みはいつまで待ってもやってこない。