彼氏彼女とはなんなのだろうか。

大学生になってから騒ぎ出し
色づき出した


周囲に一生懸命背伸びして合わせて

ドロドロになりながら掴んだものだろうか。


向こうが自分のことを

好きかどうかだけをひたすらに考え


自分の気持ちなんて省みずに手に入れた


輝かしいものだろうか。




私は年上が好きだ。


単純に自分の置かれてきた環境に

大人が多かった、

また今現在進行形で
大人と職場を共にし、
大人と勉強をして競っている。




さて、ここで問いかける。




年上に私と付き合って!


と言えるだろうか?






答えは否。




私が年上と関わる理由は

単に楽だからとか、
年下だと可愛がってもらえるからとか、

そんな簡単なものから、

価値観が年上じゃないと合わない、
意見を交換するにあたって
効用を得られるのが年上のことが多いから

とかちょっと深いところまで様々だ。



また、逆説的に考えて同い年、年下と一緒にいても

話の内容が合わず
何も得られず
ただ楽しい時間が過ぎるだけだ

と言う考えがあることもあげられる。


向こうは私が年上だからと言って

話の主導権を私に持たせ、
イエスマンのようになっている。


そう。年下とは本来そのようなものだ。


それが正解である。



年下とは先輩を持ち上げて

先輩の言う通りにへこへこしてるのが常だ。




だが少し待って欲しい。




私が普段関わっている大人から見たら



私も年下じゃないか??




紛れもなく年下で
私が年下を嫌いな理由を
向こうが年下を好きな理由だったのなら、



私は意に沿わない年下だ。


年下には可愛さと素直さが要求される。

私はどちらにも乏しいと言えるだろう。




そうつまり、話は逸れたのだが
何を言いたいかというと、



私は同い年、年下と一緒に時間を費やすことを苦手とする。

つまり彼らは自然と
友達とか恋人とかそういう候補から
外されていくのだ。


では、


年上がそうなのか?


と聞かれると、やはりそれも違う。


なぜなら彼らにとって私は






毛嫌いする年下なのである。







自らが年下を嫌いと言っておきながら
舌の根も乾かぬうちに、
同じ口で、


年下の私と付き合ってください!


と言えるはずがない。




前記したように
年下が好きな年上が求めているものを
私は持ち合わせていない。

つまり敗北。


私は孤独なのだ。





女同士の会話でよく聞く

「年下はむり〜」
「年上が好き」


などはある意味、

年下から年上への宣戦布告であり、



年下の可愛さを私は持ってますよ?

いかがですか??



と自分を押し売りしていることに過ぎない。


本当に上手に甘えられる末っ子タイプなら問題はない。

だが、大抵の女は計算高く、
またプライドも高い。
ヒールも高ければ襟も高いか
靴先が尖っている。




男の知能は自分より劣っていると考えている




そんな奴らに
どこに可愛げがあるのだろうか?




騙されてはいけない。
世の男性よ。




サラダを取り分けたり
お絞りを配ったりするのが
女子力とは既に言えなくなっていることは
ご存知だろう。


これを知らなければ出直してほしい。


女子力とは不確かなもので、

今まで全く料理や掃除をしなかった女子が

結婚したら家事をこなすのは女子力なのではないだろうか?



文化的な生活をおくるには
誰しも生活力が必要だ。

そう、
つまり、


女子力=生活力



と位置付けていいはずだ。


生活力のある女子。

素敵じゃないか。



だが、女子とは
自分の美容のため
ダイエットのため
見栄のため

ならお金など惜しまない。


そんな生き物だ。


そんな利己的で
傲慢で
わがままな
生命体が女子だ。


これらを全て称して
良いように言い直したのが女子力であって、

皆が求めているような女子力ではない。






では、女子力=生活力となるものの正体とは





それは自分のことを犠牲に

後回しにしてさえも

相手のために何かできるか。




そこに限る。



わかりやすくサラダで考えてみる。


もし、トマトが苦手な女子がいたとする。

そこでトマトが自分のところに来ないように

でもそれがバレないように
みんなによそおっているようにみせて、
上手く切り抜ける。
これは女子力だ。


全く自己を犠牲とせず、
自分の思うように上手くことを運ぶ。



では、自己犠牲とは。



ここでトマトを進んで食べることではない。

別にサラダを取り分ける役を買うな
と言っているわけでもない。


ここで言う自己犠牲とは

そう、

つまり、




トマトを嫌いだと言うことだ。




トマトが嫌いだからと言って

あなたを嫌う人はまずいないだろう。

いたらいたで、その程度のやつなのだ。

そこでしかあなたを判断できる材料がないほど


あなたのことを見ていないのだ。


そんな奴とはこっちから縁を切ってやれ。




要は、
トマトを嫌いな自分を許せるか、
そのちっぽけなプライドを捨てられるか、

そこに限られる。





自己犠牲とは
別に他人のためだけに
犠牲にするものだけのことを言うのではない



もちろん、
本当に好きな人のためにできる自己犠牲ほど

美しく見え

満足感を得るものはない。



周囲からの自分の見え方を気にして

行動することはとても大切なことだが

見栄を、
虚勢を張るのとは異なる。



生活力とは
他人が見ている自分を
いかに自分で崩していけるかだ。


そう、つまり、


自分が許せない自分を許して

他人のために、

他人から見られる自分のために



自己犠牲を払うこと。




生活力のお手本、
主婦はみなそうしている。

子供、夫、家族のために掃除洗濯料理をする

たとえ面倒でも嫌いなことであっても

それを惜しまずやる。

たまにサボって愚痴をこぼしながらでも

動いている、



そんな彼女らは美しい。


さて、あなたはどちらを望みますか?
あなたは可愛いですね。でも、キレイですか?