「でも楽しかったよね。一緒に暮らしてた時」
すれ違いの生活だったけど、だからこそ一緒の朝が嬉しかった。
待っていれば千隼が帰ってくる夜は、一人よりずっと居心地がよかった。
なんだ、やっぱりあの時もう好きだったんじゃない。
「俺は、結構辛かった」
「え?何で?」
「菜乃の気持ちがここにないってわかってて、それなのに物理的距離ばっかり近くて。だからあんまり菜乃には近づかないようにしてた」
私がいたら寛げないからかな?と考えたことはあったけど、基本的には仕事だと思ってた。
その間、私はのうのうと千隼の部屋で生活させてもらっていたのだ。
「だったら『大地なんて忘れろ!』なーんて言ってくれればよかったのに」
軽く冗談で流そうと思ったのに、千隼はなんだかとても痛そうな目をして私をじっと見続けている。
「俺は菜乃に失恋しても菜乃を忘れたくなかった。だから菜乃にも『大地を忘れろ』とは言えないし、言わない」
千隼はやっぱり優しいんだ。
いつも他人の気持ちばかり考えている。
あまり口にしないから全然伝わってないけど。
「なんか、ごめん。色々全部」
千隼は呆れたように溜息をつく。
「本当にね。出て行く方はいいかもしれないけど、残された方はきついんだよ。菜乃の匂いがしない部屋にずっと一人なんだから」
「匂い!?なにそれ?」
「菜乃がいる時はずっと菜乃の匂いがしてた。特に風呂上がり」
「それはただのシャンプーとかボディソープでしょ」
「違う。ボディソープだけじゃない、なんか甘い匂い」
恥ずかしいです・・・とても。
あの時それを指摘されてたら、まともに顔見て話せなくなっていたと思う。
あれ?ここは私の部屋だから、私の匂いがしてるのかな?
辺りを見回しながらクンクンと嗅いでいると、カシャンとスプーンを置いて、ウーロン茶で口を湿らせた千隼が、真正面から私を見た。
「菜乃、帰っておいで」
『どうぞ』とか『お好きなように』とは何度も言われたけど、千隼からこんな言葉をもらったのは初めてだった。
「『帰って』って公舎に?」
「公舎でもどこでも、俺のところに。もう別々なんて考えられない」
千隼のところを私の『帰る』場所にしていいんだ。
嬉しくて嬉しくて、溢れてしまう笑顔で頷いた。
「うん。そうする」
いつだって千隼は、私のために鍵は開けておいてくれているのだから。



