「あら、片倉君じゃないの」
 朝、とろんと落ちてくる瞼と闘いながら下船し、とぼとぼとバス停までの道を歩いていると、背後から声がかけられた。振り返ると、小学生と手をつないだ主婦が一人、立っていた。一瞬誰だかわからなかったが、すぐに数日前に会った、温の母親だと思いだす。
「おはようございます」
 あわてて頭を下げると、彼女はにこにことほほ笑んで、
「プレゼンテーションの作成は、進んどる?」
と聞いてきた。智奈さんの同級生についたものと同じ嘘を、温の母さんにもついていたのだ。
 お子さんまだ、いたんだ。見たところ、小学校低学年である女の子は、黄色い帽子をかぶり、こちらを不思議そうに見上げていた。さっと、温の言った「自殺」の意味を聞こうかどうか考えたが、女の子の顔を見て、今はやめておこうと思いなおす。思い直して、彼女に「はい、おかげさまで」とほほ笑みながら返事すると、温の母さんは少しさみしげな顔をして、静かに語りだした。
「本当ねえ、あの子、中学があんまり楽しくなかったみたいやけ、高校生活が楽しそうでね。学校でのことも、よく話してくれるようになってたのよ」
「そうなんですか」
「毎日学校で力いっぱい笑えて楽しいって。良いお友達もできて、表情も大分明るくなってたんだけどねえ……」
「……中学時代、あれとったんですか?」
 ふと、気になったことに突っ込むと、温の母さんは一瞬、ばつの悪そうな顔をして口をつぐんだ。あ、聞いちゃいけないことだったのかな。
「……あ、あの、俺バスの時間があるから」
 話題を変えなきゃ。そう思いとっさに口から出たのがこれで、言うと足も同時に動き出した。すると、彼女ははっとした表情で、
「ひきとめて、ごめんね。ほら、光もお兄ちゃんに挨拶しなさい」
と言った。
「……さようなら?」
 何が何だかわからない、という風に、語尾を上げ頭を下げた女の子に俺は苦笑し、
「さようなら」
と手を振る。
「じゃあ、失礼します」
 そして、お母さんのほうには頭を下げ、俺はバスに向かって早足で歩き始めた。
 朝から、びっくりした。まさかこんな時間(七時ちょっとすぎだ)に温のお母さんに会って、しかも温の妹にも会うなんて。
 ……しかしあれはやっぱり、あれとったんかな。俺の質問に対して、あんな表情をした彼女の様子を思い出し、うんと一人うなずく。そう言えば、中学生のころの話って、智奈さんから聞いてないな。自殺のことについても聞きたいし、ちょっと智奈さんにメールしてみよう、そう思い丁度やってきたバスに乗り込んだが、バスの中では寝てしまい、そのまま朝補講やらなにやらを受けている間に、メールが送信できたのは昼休みになってしまった。そして、返信が来たのは放課後、クラスメイトの姿がまばらになってきたころだった。
『中学は違う学校だったから、わからんわ、ごめんね。他に聞きたいことがあるんよね?それなら明日、放課後に会いませんか? 突然やけど、大丈夫かな?』
数学のノートと温のことを調べたノートの上に、携帯を置く。明日の放課後、大丈夫だ。すぐに「大丈夫です」という返事を送り、ちょっとトイレに行こうと席を立った。
「俊弥、ばいばい!」
「おー、ばいばい」
教室をでてすぐに、背後から教室に残っていた最後のやつらが、俺を追い越して帰っていく。外はもう暗くなっており、学校に残っている生徒は少ないようだった。
俺も、あと一問といたら帰ろう。数字と格闘した後のぼーっとした頭をかかえトイレに入ると、すばやく用を足して逃げるように手を洗い、飛び出す。冬のトイレって、めちゃくちゃ寒い。
  二年生の廊下で光がともっているのは、俺の教室のものだけだった。廊下の一番奥にあるそこへ、ズボンで手を拭きながら、ゆっくりと歩いていく。やっぱり数学やらないで、帰ろうかな。真っ暗だし、寒いし。でもそろそろ部活が終わる時間だから、もう少し教室に残っていたら、誰か帰ってくるかもしれない。
残るか、残るまいか。ぐるぐると考えながら教室に足を踏み入れると、とたんびゅうと強く冷たい風が前髪を揺らした。ざわりと手足に、鳥肌が立つ。見ると、教室後方のベランダへの扉が大きく開いていた。ゆらゆらとカーテンが小さく揺れている。
だれか、あけたんだろうか?
けれど教室に人影はない。さっき俺を追い越していった奴らで、誰もいなくなったはずだった。とりあえず閉めようと、扉に近づいていく途中、俺の机からノートが一冊落ちているのが目に入る。温のことを書いてあるノートだ。
それは不自然に、ページが開かれて、落ちていた。
「……温?」
 とたん、彼が来たのかと思い、名前を呼ぶ。しかし、ベランダをのぞいてみても、もう一度そこで名前を呼んでみても、彼が姿を現すことはなかった。
 ……やっぱり、帰ろう。先ほど感じた風の冷たさに、そう決断し机の上を片付け始める。これ以上残っていたら、もっと気温が下がるだろう。急いでかばんに荷物をつめ教室を飛び出すと、下足箱の前で見慣れた姿を見つけた。
「恵子」
 どうやら、帰るところらしい。首に赤いマフラーをぐるぐる巻きにして、手袋までしている。可愛らしさのかけらもなく、本気で防寒のみを目的としたすきのないその巻き方に、恵子らしさを感じた。彼女は俺の声に反射的にこちらをむくと、一瞬目を見開いた。
「片倉、帰り?」
 しかしいたって普通に言葉を続けられ、どこかほっとする。ここで逃げられでもしたら俺、自分がまいた種とは言えけっこう傷つく。
 そのまま自然に、並んで外にでた。各教室から漏れる光以外に灯はなく、真っ暗な道。日中よりは、二人で歩きやすい。
「今日またあの二人に騒がれとったね」
 ふいに恵子がそう切り出した。何を話そうかと話題をさがしていた俺は、その言葉に首だけ恵子のほうを向いた。
「へ?」
「交換ノート……して片倉君、真相は?」
 にやり、と大きく笑い恵子は首をかしげた。それを見、さっと汗をかく。そうだ、あの騒ぎ、恵子も見ていたんだ。もっと場所を考えるべきだった。
「いやいやいやいや、真相も何もあれただあいつら二人のでっちあげやけね!?」
 目を見開き手を振ると、彼女は「あはは」と大口をあけて笑う。
「そんな必死にならんでも! 別にあの二人の言うこととか信じとらんちゃ!」
 ばしり、と背中をたたかれ、するどい痛みが体に響いた。あ、何だ。恵子も俺をからかっただけか。彼女が自然に笑ってくれたのがうれしくて、ついついふにゃりと笑みをうかべる。そんな俺をちらりと見て、恵子は唇に笑みの形を残し、静かに前をむいた。
「片倉はすごいねえ」
「え?」
 一瞬、恵子が息をとめた。何かを、決心する顔。
「誰に対しても自分を崩さんで、素直やもん。そんなん、普通できん」
 何かと思えば。思わず身構えてしまった体を、ゆるめた。そして自然とはあ、と長くため息がもれた。
「なっ、何でため息とかつくん!? 人がほめとんのに!」
「いや……なんだそんなことかって」
「そんなことかっち……」
「俺、そんなことないよ。苦手な奴もおるし、好きな奴もおるもん」
 ただみんなが自然と集まってくるから、それに調子よくあわせているだけで。あと、不必要に人を傷つけたくはない。勇にはけっこう、分かりやすいって言われるんだけど。
 と、いきなり。再び背面に鋭い痛みが走った。
「いって……」
「そんなん人が好きになった所、否定せんでくれん? 少なくともうちから見た片倉はそうなんやけん!」
 堂々と、言い放つ。痛い。やっぱりえらく、遠慮の無い女だ。ふりおろされた平手も、おこったように言った台詞も。
「……恵子もすげえよ」
「ん?」
 にやりと笑う。もう完全に、昔の恵子に戻っている。それならばこのくらいの仕返し、やってもよいだろう。
「力、強すぎ」
 女じゃないだろお前、とはさすがにつけなかったけど。いや、つけられなかったのほうが正しいだろう。だってその一言で、背中に三発目を喰らうハメになりそうだったし。
「って!」
 そんな俺の読みは甘かった。にやり、と笑い返した彼女は次は一発、けりをいれてきた。ああ、なんて凶暴女なんだ。でも、やっぱりこれでこそ、赤間恵子。
「女の子に対して言う言葉やないやろ!」
「だって恵子やもん」
「なにそれ」
「遠慮せんで、自然に話せる」
 やろ? と横を向くと、ぴたりと恵子はとまっていて。どうした、と俺も足をとめると彼女は「はああ」と長いため息をついてその場にしゃがみこんだ。
「おいおいおい、どうした?」
「片倉ぁ……」
 そうして、きっと下から俺をにらんだ。あ、きっつい顔。
「それやけあんたのこと、嫌いになれんのよ!」
「へ」
「もういい、帰るよ!」
 ほら、とせかされて足早に歩き出す。何だ、立ち止まったのはそっちじゃないか。ずんずんと歩いていく恵子の横に急いで並ぶと、彼女の横顔が真っ赤になっているのが見えた。恐ろしく本数の少ない外灯のせいではないと思う。何でだろう、と考えると「あ」と一つ、心当たり。