「ま、まてまてまて! それ年齢的に無理があるだろ!? てかなんで桐原なんだよ!」
「言ったろ? 女子の妄想力はすげえよ。桐原って声低いやろ? ちょっと聞き間違えたら男の声みたいにさ。やけ、もしかしたら男の声に聞き間違えたのは桐原の声だったのかもってことになったんよ」
そうか、女子の妄想力ってそんなにたくましいのか。知らなかった。
「って、理由は? その根拠は?」
「うん、これがまたもっともらしい。桐原のぞく遠藤、柏木は三十前後ぐらいの若い先生だ。そして三人とも未婚。で、俊ちゃん、三人は何の先生だ?」
「え? 遠藤は現国で柏木が社会で桐原が数学だろ?」
「そう。その教科、若い先生はお前の得意とする文系科目の先生だ。しかもお前、けっこう先生と調子よく話すだろ?」
「それでか! でも桐原は? 俺数学嫌いやし」
「そこもちゃんと。お前が数学駄目なのは公認だろ? で、よく昼休みに先生によびだされたりするだろ?」
「あっ!」
「しかもお前、桐原ともけっこう仲良いだろ?」
「なるほど! 納得……できんけどできた!」
確かに話をきけば筋がちゃんと通っているようないないような……改めて、女子の妄想力って、すごい。そして、それを信じてしまう生徒がすごい。
「で?」
勇が声の調子を変えて聞く。何を?
「は?」
「いや、だから。真相は?」
真相。困った。
「えー? どう思う?」
わざと、にやりと笑う。時間稼ぎだ、とりあえず。真相は、温と話していました、赤間恵子はただタイプではありませんでした、温は幽霊です、おしまい。だけど、こんなもの話したところで、一笑されて終わりだ。なにか、他に真相は……。
「俺的には」
勇もにやっと笑ってのってくる。良いぞ。
「桐原説かな。これ、話はでたもののさすがに無いって言って一時間ぐらいで消滅した説なんだ」
やめろよ、勇。冗談でもきついって。
「ああ、あえての?」
「そ、あえての大穴狙い」
だいたい何でちょっと先生に声かけられたからって、恋人を先生にするんだ。別に先生が俺の教室から出てきたわけでもないのに、いいかげんな。いや、噂って大体いいかげんか。どう切り抜けようかと悩んでいたその時、俺のポケットから携帯のバイブが鳴った。
「残念、大穴ハズレ」
そう言い、にっこりと笑ってみせる。
「え、何? 真相わかった?」
その言葉に勇は目を輝かせ、鼻息荒く詰め寄ってきた。
「分かったもなにも、俺のことやし。でもけっこうつまらんオチ」
「何? 何?」
「携帯だよ、携帯。これで話しとったと」
文明よ、ありがとう。携帯の通話機能って、使えるんだな。メールのほうばっか重視してた、ゴメン。本来の姿を忘れていた。
「え!? メールやなくて、通話?」
「うん。いや、最近母さんの体の調子悪くてちょっと入院してんだ、今。やけ、父さんがいちいち電話かけてくんの。メールじゃ打つのめんどくさいし、父さん打つの遅いし」
こうして俺の母さんは入院し、父さんは機械音痴へと変貌を遂げていく。実際は母さんは元気だし、父さんは俺より機械に詳しい。
「え、おばちゃん大丈夫か?」
「ああ、うん。そんなに重体ってわけじゃなくて日ごろの疲れってやつがさ。まあうちの母さんの事やけ、すぐ復活するやろ」
「確かに。お前んちのおばちゃんパワフルやもんなあ……ちか体とかこわすんやね」
にやり、と勇が笑う。俺もにやりと笑い返した。うちの母さんはとりあえず力強い元気な人だ。中学時代に握力が四十四あったとか、近所の揉め事の仲裁に入っていつの間にか渦中の人物になってしまっているとか、ともかく伝説が多い。俺は母さんが何かやらかすたびに勇に報告し、勇も母さんの武勇伝を楽しみにしていた。
「まあ、いくら俺の母さんって言ったって、人間やからねえ」
そこで丁度バスは終点にたどり着き、ややバス停からはみ出して急停車した。俺たちの他に、乗客はいない。きっと運転手さん、ぼんやりと考え事でもしていたのだろう。このバスに一人で乗っていると、たまにもう誰も乗客がいないと勘違いされて、終点でとまってくれない時がある。
「あ! 船きとる!」
バス停の目の前の船着場には、大きなエンジン音を響かせた小さな渡船が、桟橋のむこうにとまっていた。緑と白の二色で塗装された小さな渡船は、三分間の航海で湾の間をつないでいる。湾には橋もかかってはいたが、この赤い橋の上を走るバスの本数が少ないのと、船のほうがいくぶんか安上がりなので、ずっと船通学を続けてきた。
二人で桟橋に駆け込むと、切符切りのおっちゃんが扉を閉めている所だった。俺たちの存在に気が付くと、「はようしてー、まだ大丈夫やけん!」と声をかけてくる。「ありがとーございまーす!」と声をそろえてさけび、船中に転がり込んだ。
「ギリセーフや」
「おう」
船中は買い物帰りの老人や帰宅中の学生で混んでおり、立つ場所を求めしかたなく扉付近におちついた。窓にガラスが付いていないため、ここはもろに潮風を浴びるポジションであり、たまに海が荒れているときは、塩水を浴びるハメに陥ることもある。個人的にあまり好きな場所ではないが、仕方ない、そう思った瞬間、エンジンがひときわ重く大きな音をたてて、船がゆっくりと動き始める。隣に立っていたセーラー服の女学生達の、大きな笑い声ですら、かきけされる、うなり。足元から響き全身をつつむ振動の中、勇は声をはりあげ、果敢に話し始めた。
「そういやさ、俺らの学校、昔自殺した奴おったらしいよ!」
「え?」
ドキン、と心臓がなった。なんだ、急に。勇はそんな俺の様子に気づかず、夕日に反射してオレンジ色に染まった海面に視線を注いでいた。
「そんなに前のことやないらしいんやけど、なんか飛び降りやったらしいぜ、授業中に」
「授業中に飛び降り?」
もしかして、いや、多分これは温のことなのか。
「なんで授業中に? 自習やったん?」
深く聞いても、きっと不自然ではないはずだ。何をしなくても情報を持ってきてくれる、勇はこんな時とてもありがたい。
「いや、そこまではようとわかっとらんっちゃね。俺も聞いた話やけん」
「そりゃそうやろ! 見とったらこわいわ!」
「あは、そうやったら留年しまくっとるな、俺!」
「ははー、勇、実は年上やったんかあ……気付かんかったわあ」
しまった、墓穴を掘った。気づいたときにはもう遅く、テンポの良い会話は転がるようにどんどん先へ先へと進んでいく。ああもう、自殺の話には戻れないな。
そのまま結局、いつものおふざけ会話をしながら、下船した。ぞろぞろと船着場のバス停にでてみると、もうそこには緑色のバスが扉をあけて待ち構えていた。何だ、今日はいやに接続のよい日だな。
「俺今日ここでバイバイ」
「え、どうしたん?」
普段ならここからバスも一緒で、最後に降りるバス停が一個違いなだけである。バスに乗車しかけた足を止めて振り返ると、彼は「い」っと口をあけて、
「歯医者。商店街のところらへんやけん」
と言った。商店街と言えば、いつも二人でだらだらと歩いて帰る方向だ。
「あ、なら途中まで俺歩いてくよ」
運転手さんに申し訳ないと思いつつもバスから降り、車体を迂回して自転車置き場のわきの道に二人で入った。
「虫歯?」
「いや、矯正のやつ」
「うわ。矯正っち、めちゃくちゃ痛いんやろ?」
「はじめはね」
俺たちの他愛もない会話は、古い家が立ち並ぶ小さな路地には妙に響く。横目で上を見ると、木造一戸建ての二階から、白髪のおばあさんがじっと往来を見下ろしていた。ぼんやりとああやって、毎日をすごしているのだろうか。
「そういえばそろそろおえべっさんやん」
赤い橋の下に入ったところで、勇がぽつりと思い出したように言った。
「あ、そうやん!」
おえべっさん、とは春と冬、一年に二回行われる若松のお祭りで、みなこの近くの恵比寿神社にお参りをする。今俺たちが歩いている橋の下や、神社に続く道には多くの屋台が立ち並び、その間だけここら辺一帯は活気に包まれるのだ。普段は通行人なんてほとんどいないし、実に閑散としている。
「ちょうどテスト期間中やろ? 早く帰れるけ、よろうぜ」
「いいよ。ただよったっちったら怒られるけん、ばれんようにせなな」
「おう」
テスト期間中だからか、人が多く集まる場所だからか、はたまた制服姿だからなのか(それらすべてを総合してかもしれない)、勇の親も俺の親も二人で学校帰りにおえべっさんによることを、あまりよろしく思っていないようだった。イカ焼とか焼き鳥とかの、においが制服につかないようにしないと。
そこから隠ぺい工作について、完璧な作戦を二人であーでもないこーでもないと話し合いながら恵比寿神社の境内を通り抜け、商店街付近についた。
「じゃあ、俺こっち」
信号を渡りきった所で、勇が左を指さす。俺の帰る方向は、右。ここで本当にバイバイだ。
「おう、そんじゃな」
「また明日!」
ふざけてぶんぶんと手を振り、にやっと笑ってお互い背を向けた。
さて、どうしよう。すっと頭を切り替え、足早に歩き始める。
まずは、彼女説のほうだ。俺にそんな噂がつきまとっているなんて、知らなかった。知らなかったけど、原因ははっきりしている。思わず、深くため息。しばらく温に会いに行くのは控えよう。いや、会ったとしても会話はしない。さらに変な噂が流れたら、こちとらたまらない。それならば、元を断ってしまうのが一番だ。
思わぬ方面からではあったが、どうやら幽霊は厄介ごとを運んでくるらしい。いや、俺がこんな事態になれていないから、厄介ごとになってしまうのだろうか。
授業中の自殺。勇の言っていた生徒はきっと温の事だろう。飛び降りって、きっとベランダからやったんだろうな。いや、温は今屋上にいるのだから、もしかしたら屋上からか?それにしても、何故わざわざ授業中に? きっと理由があるはずだ。
休み時間や放課後のほうが、きっと邪魔は入りにくいはず。そこをわざわざ選んで授業中にやっているのだから、何か目的があった、もしくはやらざるを得ない状況に、授業中においこまれた、のだろうか。
もし俺が、授業中に自殺したら……。授業中って、最中に席を立って教室を出たのだろうか、それとも休み時間からいなかったのだろうか。
休み時間からいなくなって、自殺をしたのではきっと誰もしばらくは気づかない。席が一つ空いていても、保健室かトイレにでも行っているのだろうということになる。休み時間にそっと抜けて、屋上に行って飛び降りれば……。
そうか、それだったら逆に邪魔は入りにくい。ふざけて屋上に上がる生徒も、休み時間が終ればちゃんと教室に戻っていく。そうなれば四十五分間、誰の介入もうけずに自由に動けるのだ。
そこまで考えたところでふと歩みを止めた。駄目だ、なんで死んだか考えるには、情報が少なすぎる。ちょっと明日、森田に聞いてみよう。確かこの前、自殺した奴のことを、他の女子に話してた気がする。
なんかちょっと、面白くなってきた。止めていた足を一歩、大きく踏み出す。歩みが速まるとともに、俺の好奇心も大きく動き始めていた。
「言ったろ? 女子の妄想力はすげえよ。桐原って声低いやろ? ちょっと聞き間違えたら男の声みたいにさ。やけ、もしかしたら男の声に聞き間違えたのは桐原の声だったのかもってことになったんよ」
そうか、女子の妄想力ってそんなにたくましいのか。知らなかった。
「って、理由は? その根拠は?」
「うん、これがまたもっともらしい。桐原のぞく遠藤、柏木は三十前後ぐらいの若い先生だ。そして三人とも未婚。で、俊ちゃん、三人は何の先生だ?」
「え? 遠藤は現国で柏木が社会で桐原が数学だろ?」
「そう。その教科、若い先生はお前の得意とする文系科目の先生だ。しかもお前、けっこう先生と調子よく話すだろ?」
「それでか! でも桐原は? 俺数学嫌いやし」
「そこもちゃんと。お前が数学駄目なのは公認だろ? で、よく昼休みに先生によびだされたりするだろ?」
「あっ!」
「しかもお前、桐原ともけっこう仲良いだろ?」
「なるほど! 納得……できんけどできた!」
確かに話をきけば筋がちゃんと通っているようないないような……改めて、女子の妄想力って、すごい。そして、それを信じてしまう生徒がすごい。
「で?」
勇が声の調子を変えて聞く。何を?
「は?」
「いや、だから。真相は?」
真相。困った。
「えー? どう思う?」
わざと、にやりと笑う。時間稼ぎだ、とりあえず。真相は、温と話していました、赤間恵子はただタイプではありませんでした、温は幽霊です、おしまい。だけど、こんなもの話したところで、一笑されて終わりだ。なにか、他に真相は……。
「俺的には」
勇もにやっと笑ってのってくる。良いぞ。
「桐原説かな。これ、話はでたもののさすがに無いって言って一時間ぐらいで消滅した説なんだ」
やめろよ、勇。冗談でもきついって。
「ああ、あえての?」
「そ、あえての大穴狙い」
だいたい何でちょっと先生に声かけられたからって、恋人を先生にするんだ。別に先生が俺の教室から出てきたわけでもないのに、いいかげんな。いや、噂って大体いいかげんか。どう切り抜けようかと悩んでいたその時、俺のポケットから携帯のバイブが鳴った。
「残念、大穴ハズレ」
そう言い、にっこりと笑ってみせる。
「え、何? 真相わかった?」
その言葉に勇は目を輝かせ、鼻息荒く詰め寄ってきた。
「分かったもなにも、俺のことやし。でもけっこうつまらんオチ」
「何? 何?」
「携帯だよ、携帯。これで話しとったと」
文明よ、ありがとう。携帯の通話機能って、使えるんだな。メールのほうばっか重視してた、ゴメン。本来の姿を忘れていた。
「え!? メールやなくて、通話?」
「うん。いや、最近母さんの体の調子悪くてちょっと入院してんだ、今。やけ、父さんがいちいち電話かけてくんの。メールじゃ打つのめんどくさいし、父さん打つの遅いし」
こうして俺の母さんは入院し、父さんは機械音痴へと変貌を遂げていく。実際は母さんは元気だし、父さんは俺より機械に詳しい。
「え、おばちゃん大丈夫か?」
「ああ、うん。そんなに重体ってわけじゃなくて日ごろの疲れってやつがさ。まあうちの母さんの事やけ、すぐ復活するやろ」
「確かに。お前んちのおばちゃんパワフルやもんなあ……ちか体とかこわすんやね」
にやり、と勇が笑う。俺もにやりと笑い返した。うちの母さんはとりあえず力強い元気な人だ。中学時代に握力が四十四あったとか、近所の揉め事の仲裁に入っていつの間にか渦中の人物になってしまっているとか、ともかく伝説が多い。俺は母さんが何かやらかすたびに勇に報告し、勇も母さんの武勇伝を楽しみにしていた。
「まあ、いくら俺の母さんって言ったって、人間やからねえ」
そこで丁度バスは終点にたどり着き、ややバス停からはみ出して急停車した。俺たちの他に、乗客はいない。きっと運転手さん、ぼんやりと考え事でもしていたのだろう。このバスに一人で乗っていると、たまにもう誰も乗客がいないと勘違いされて、終点でとまってくれない時がある。
「あ! 船きとる!」
バス停の目の前の船着場には、大きなエンジン音を響かせた小さな渡船が、桟橋のむこうにとまっていた。緑と白の二色で塗装された小さな渡船は、三分間の航海で湾の間をつないでいる。湾には橋もかかってはいたが、この赤い橋の上を走るバスの本数が少ないのと、船のほうがいくぶんか安上がりなので、ずっと船通学を続けてきた。
二人で桟橋に駆け込むと、切符切りのおっちゃんが扉を閉めている所だった。俺たちの存在に気が付くと、「はようしてー、まだ大丈夫やけん!」と声をかけてくる。「ありがとーございまーす!」と声をそろえてさけび、船中に転がり込んだ。
「ギリセーフや」
「おう」
船中は買い物帰りの老人や帰宅中の学生で混んでおり、立つ場所を求めしかたなく扉付近におちついた。窓にガラスが付いていないため、ここはもろに潮風を浴びるポジションであり、たまに海が荒れているときは、塩水を浴びるハメに陥ることもある。個人的にあまり好きな場所ではないが、仕方ない、そう思った瞬間、エンジンがひときわ重く大きな音をたてて、船がゆっくりと動き始める。隣に立っていたセーラー服の女学生達の、大きな笑い声ですら、かきけされる、うなり。足元から響き全身をつつむ振動の中、勇は声をはりあげ、果敢に話し始めた。
「そういやさ、俺らの学校、昔自殺した奴おったらしいよ!」
「え?」
ドキン、と心臓がなった。なんだ、急に。勇はそんな俺の様子に気づかず、夕日に反射してオレンジ色に染まった海面に視線を注いでいた。
「そんなに前のことやないらしいんやけど、なんか飛び降りやったらしいぜ、授業中に」
「授業中に飛び降り?」
もしかして、いや、多分これは温のことなのか。
「なんで授業中に? 自習やったん?」
深く聞いても、きっと不自然ではないはずだ。何をしなくても情報を持ってきてくれる、勇はこんな時とてもありがたい。
「いや、そこまではようとわかっとらんっちゃね。俺も聞いた話やけん」
「そりゃそうやろ! 見とったらこわいわ!」
「あは、そうやったら留年しまくっとるな、俺!」
「ははー、勇、実は年上やったんかあ……気付かんかったわあ」
しまった、墓穴を掘った。気づいたときにはもう遅く、テンポの良い会話は転がるようにどんどん先へ先へと進んでいく。ああもう、自殺の話には戻れないな。
そのまま結局、いつものおふざけ会話をしながら、下船した。ぞろぞろと船着場のバス停にでてみると、もうそこには緑色のバスが扉をあけて待ち構えていた。何だ、今日はいやに接続のよい日だな。
「俺今日ここでバイバイ」
「え、どうしたん?」
普段ならここからバスも一緒で、最後に降りるバス停が一個違いなだけである。バスに乗車しかけた足を止めて振り返ると、彼は「い」っと口をあけて、
「歯医者。商店街のところらへんやけん」
と言った。商店街と言えば、いつも二人でだらだらと歩いて帰る方向だ。
「あ、なら途中まで俺歩いてくよ」
運転手さんに申し訳ないと思いつつもバスから降り、車体を迂回して自転車置き場のわきの道に二人で入った。
「虫歯?」
「いや、矯正のやつ」
「うわ。矯正っち、めちゃくちゃ痛いんやろ?」
「はじめはね」
俺たちの他愛もない会話は、古い家が立ち並ぶ小さな路地には妙に響く。横目で上を見ると、木造一戸建ての二階から、白髪のおばあさんがじっと往来を見下ろしていた。ぼんやりとああやって、毎日をすごしているのだろうか。
「そういえばそろそろおえべっさんやん」
赤い橋の下に入ったところで、勇がぽつりと思い出したように言った。
「あ、そうやん!」
おえべっさん、とは春と冬、一年に二回行われる若松のお祭りで、みなこの近くの恵比寿神社にお参りをする。今俺たちが歩いている橋の下や、神社に続く道には多くの屋台が立ち並び、その間だけここら辺一帯は活気に包まれるのだ。普段は通行人なんてほとんどいないし、実に閑散としている。
「ちょうどテスト期間中やろ? 早く帰れるけ、よろうぜ」
「いいよ。ただよったっちったら怒られるけん、ばれんようにせなな」
「おう」
テスト期間中だからか、人が多く集まる場所だからか、はたまた制服姿だからなのか(それらすべてを総合してかもしれない)、勇の親も俺の親も二人で学校帰りにおえべっさんによることを、あまりよろしく思っていないようだった。イカ焼とか焼き鳥とかの、においが制服につかないようにしないと。
そこから隠ぺい工作について、完璧な作戦を二人であーでもないこーでもないと話し合いながら恵比寿神社の境内を通り抜け、商店街付近についた。
「じゃあ、俺こっち」
信号を渡りきった所で、勇が左を指さす。俺の帰る方向は、右。ここで本当にバイバイだ。
「おう、そんじゃな」
「また明日!」
ふざけてぶんぶんと手を振り、にやっと笑ってお互い背を向けた。
さて、どうしよう。すっと頭を切り替え、足早に歩き始める。
まずは、彼女説のほうだ。俺にそんな噂がつきまとっているなんて、知らなかった。知らなかったけど、原因ははっきりしている。思わず、深くため息。しばらく温に会いに行くのは控えよう。いや、会ったとしても会話はしない。さらに変な噂が流れたら、こちとらたまらない。それならば、元を断ってしまうのが一番だ。
思わぬ方面からではあったが、どうやら幽霊は厄介ごとを運んでくるらしい。いや、俺がこんな事態になれていないから、厄介ごとになってしまうのだろうか。
授業中の自殺。勇の言っていた生徒はきっと温の事だろう。飛び降りって、きっとベランダからやったんだろうな。いや、温は今屋上にいるのだから、もしかしたら屋上からか?それにしても、何故わざわざ授業中に? きっと理由があるはずだ。
休み時間や放課後のほうが、きっと邪魔は入りにくいはず。そこをわざわざ選んで授業中にやっているのだから、何か目的があった、もしくはやらざるを得ない状況に、授業中においこまれた、のだろうか。
もし俺が、授業中に自殺したら……。授業中って、最中に席を立って教室を出たのだろうか、それとも休み時間からいなかったのだろうか。
休み時間からいなくなって、自殺をしたのではきっと誰もしばらくは気づかない。席が一つ空いていても、保健室かトイレにでも行っているのだろうということになる。休み時間にそっと抜けて、屋上に行って飛び降りれば……。
そうか、それだったら逆に邪魔は入りにくい。ふざけて屋上に上がる生徒も、休み時間が終ればちゃんと教室に戻っていく。そうなれば四十五分間、誰の介入もうけずに自由に動けるのだ。
そこまで考えたところでふと歩みを止めた。駄目だ、なんで死んだか考えるには、情報が少なすぎる。ちょっと明日、森田に聞いてみよう。確かこの前、自殺した奴のことを、他の女子に話してた気がする。
なんかちょっと、面白くなってきた。止めていた足を一歩、大きく踏み出す。歩みが速まるとともに、俺の好奇心も大きく動き始めていた。
