「ただいま」
六時半過ぎ。縁は自宅に着くと、玄関に母のパンプスが並んでいることに気付く。
(この時間に帰ってくるなんて珍しいなぁ)
縁はそう思いながら、靴を揃えて、リビングへ向かった。
リビングに入ると、ソファーに座っている母がいて、縁に気付くと「おかえり」と微笑みかけた。
「依人くんとデートしてきたの?」
「ううん、風邪ひいていたからお見舞いに行ってたの」
「そうなの?」
「でも、今は熱はほとんどなかったから大丈夫だよ」
「よかったわね」
「遅くなってごめんんね。今からご飯作るから待っててね」
縁は慌ててキッチンへ駆け込もうとしたが、母に呼び止められた。
「縁、その前にこっちに座って?」
母はソファーの自分の隣のスペースをぽんと叩いて座るように促した。
「なぁに?」
(お母さん凄く真剣な顔だ……職場で何かあったのかな)
どうしたんだろう、と疑問に思いつつ、母に従って隣に座る。
母は縁が話を聞く姿勢になるのを見ると、話を始めた。
「お母さんね、来年度から支店長に昇進することになったの」
「そうなんだ。おめでとうっ」
(いい話でよかったぁ……)
思いがけない朗報に、縁の表情は綻んでいった。
「お祝いしなきゃね。明日お母さんの好きなもの沢山作るからね」
明日買い物に行かなきゃ、と縁はお祝いモードに入っていたが、母の顔は縁とは逆に暗くなっていく。
「話はまだ、あるの……」
「話って?」
歯切れが悪そうな母に、縁は呑気そうに首を傾げた。
(もしかして、お付き合いしている人がいるとか? 別にあたしに変な気遣わなくてもいいのに)
しかし、母の話は縁が予想していたものとは違った。
「あのね――――」
母が話を進める毎に、縁の表情に翳りが色濃く現れる。
(うそ、でしょ……)
どうか単なる夢であって欲しい。
縁は心の中で切実に願ったが、非情にもそれは現実だった。
「縁!」
気付けば、逃げるようにリビングから抜け出し、階段を駆け上がっていた。
自室に入るとすぐにドアの鍵を掛けて、電気を点けずにベッドに潜り込む。
「縁、開けて!」
ドアのノック音と、母の声が聞こえたが、拒絶するように芋虫みたいに布団にくるまった。
「うっ、えっ、っく……やだぁぁ」
嗚咽が抑えられず、子どもみたいに泣きじゃくってしまう。
「ごめんね? 本当にごめんね」
ドアの向こうにいる母は何度も縁に謝っていたが、縁の耳に入ってくることはなかった。
(やだ……先輩と、離れたくないよぉ……)
“昇進と同時に札幌の転勤も決まったの。縁には転校してもらわないといけないの――――”
何度も脳内にで繰り返されるのは、死刑宣告にも似た母からの残酷な言葉。
依人と離れ離れになる日が刻一刻と迫っていた。