純な、恋。そして、愛でした。



「調子に乗るな」


額に優しい鉄拳を食らって、お道化て笑った。それ以上聞くなと牽制されたのだとわかったからしつこくは聞かなかった。


私にも聞かれて嫌なことがあるように、誰にでも聞かれたくない事情というものはある。そこら辺の物分かりはいいほうだ。


けれどどこか寂しさを感じた。
夢の断片を見せてもらって、少し距離を縮められたと思ったぶん、突き放されたのがショックだった。


でもそれは一方的な考えでしかないので、自分が間違っているのだと無理やり消し去った。


「そろそろ帰るね」

「ああ」


食器を洗い場に持って行き、スポンジで洗った後にそう告げた。


置いたままでいいと制されたけれど、お構いなく恩義は返させてもらった。
返せたかは別として。ご馳走になるだけなって、そのまま帰るのはいくら私でも気が引けた。


玄関口でローファーを履き、一階に降りておばあさんに「お邪魔しました」と頭を下げた。


「またいつでもいらっしゃい」

「はい!」


見ているだけで穏やかになる、その陽だまりのような笑顔に見送られて外へ出た。
時刻は十八時をまわっていたけれど、空はまだ夜にはなりきれていなかった。


上の方はネイビーに空の色をかろうじて保っているけれど、下半分は少しオレンジがかっていて、雲に隠れて光を放っている。遠くを見るとすっと意識が飛んでいく感覚がした。


後ろを向こうとしたら黒野くんが横に並んだので「送ってくれるの?」と冗談交じりに投げかけたら「黙って歩け」と怒られた。


「はいはい」


皮肉っぽく言ったのだけれど、彼はなにも返してこなかった。
両手を腰の後ろで組んでわざとゆっくり歩いた。
来るときと同様、もう置いて行かれることはなかった。


道中、会話はほとんどなかったように思う。私が明日の学校について話して、彼が時折相槌とも呼べない息を漏らすぐらい。


その傍ら、私はふたりで歩いているのに三人で歩いているような不思議な錯覚に陥っていた。お腹の中にいる赤ちゃんと私。それからなんの関係もないのに、彼。


こんなの絶対におかしいって、そう思うのだけど、絵にかいたような幸せな家族の姿が頭に浮かんだのだ。


夕日の中を妻と夫が歩く。妻の中には小さな命が宿っている。私の未来には描けないであろう、その幸せ過ぎるシーン。目を一瞬だけ閉じて、黒で塗りつぶした。


幸福な幻影は、現実を知るものにとったら慰めにもならない。


私は何度も夢に見た。母と父と再び食卓を囲んでなんでもない日常を生きる、ほかの人が何気なく持っている普通の幸せ。
何度も何度も夢に描いた。だけどあるのは残酷な現実だけ。


実現不可能な理想は見るべきじゃない。