酔っ払って打ったやつ

ごつん、となにかが壁に当たる鈍い音がして、目が覚めた。
「ゲーム飽きたわー!」
それから、まだ変声期を迎えていない小学五年生の弟の高い声が聞こえてきたことで、壁に投げつけられたなにかはゲームのコントローラーかなにかだったのかなと考えつく。もしかしたらコントローラーはわざとではなく偶然ぶっ飛んでしまっただけかもしれなかったし、もしくはぶっ飛んだのはコントローラーではなく弟の右手だったかもしれなかったけど、まあ、ものは大切にしろよ、と至極まっとうなことを思った。
朝食をとってからまた眠りをむさぼっていた胴体をとろとろと起こす。隣のリビングで、弟と、たぶんその塾の友だちがぎゃあぎゃあと騒いでいるやかましさとともに、ざあざあという雨音も聞こえていたので、カーテンを開けなくても今朝からいまだ雨が降り続いていることは知っていた。梅雨だ、五月雨だ。なので当たり前なのだけど、このところ雨が多い。雨が入らないよう窓を閉めて眠っていたので、上半身にじわりと汗をかいていた。熱がこもった寝床を抜け出してカーテンを開けると、立ち並ぶマンションたちに白いもやがかかっていたけれど、そうしたことたちには何の感想も湧かなかった。じだらくロボットのように椅子の上で足を組んで座ると、指をぐるぐるとしてつぶつぶを消していくだけの、全く生産性のないスマホゲームを始めた。ぐるぐると円をかいてつぶつぶをつぶしていくたびに、ツブ!ツブ!と小さく音が鳴る、リビングには聞こえないだろうぐらいの小さな音だ。その音を聞くたびにシヌ!シヌ!と共鳴の呟きをもらしたくなって、でもそれはシネ!シネ!でもよくて、そしてそれはわたしの自殺の宣言であり、わたしがわたしをじりじりと追い詰めて殺そうとする他殺の宣言でもある。死にたい、死にたいよお、小声で呟きながらつぶつぶを消していくわたしはヤバイ人だ。でも、本当にヤバイ人はそんなふうに油を売ってないで黙って首をつったり電車に飛び込んだりしてさっさと死んでしまうのだ。だから、わたしはヤバイ人のように見えるかもしれないけれども、実はそんなにヤバイ人じゃない。憂鬱を抱えた凡人だ。
うす暗くて湿っぽい梅雨の初夏の部屋。スマホゲームをしているうちに汗はひいていてクーラーをつけるほどでもなくて、でも弟と友だちのいるリビングは冷房を18℃の下限までさげた冷え冷えなんだろう。あいつらはシロクマでもないくせに、あまりにも気軽に資源をむだにする。お前らが暑いのはむだにエネルギーを使って多動におしゃべりをしているからだよ、と、こないだ弟が友だちを連れていたときのリビングを通って思った。特に今日みたいな母親が出かけがちな土曜日、弟は水をたっぷり吸った水死体のように膨張する。彼らの声はやたらと大きいので、耳を澄ませば話している内容までも聞き取れる。どうやらアイスを食べているらしいこともお姉さんは知っている。 弟とその友だちの金持ち自慢が聞こえる。塾のまたべつの友だちの悪口を言うのが聞こえる。低俗だ。
「おれの学校のやつら、父さんの年収低いやつばっかりでびっくりするわ。おれの父さんは一千万こえてるけどクラスにそんなやつひとりもおらへん。公立の学校やからびんぼう人ばっかりや」
「そうや。おれの学校のやつらも、ラルフ・ローレンってなにか知らへんねんで。なにそれ知らん、言うねん」
「うそやん、スーパーで服買ってるんちゃう。千円ぐらいの!でも、体操服の中古買って着てるやつおるで。知らんだれかが何年も着たやつを着るんやで。汗しみこんでてくさなってるんちゃう」
「ほんまに?中古の体操服なんかありえへんわ。でも、ふつうの服でも中古の売ってるところあるやろ。ああいう店見たら父さんが、だれが着てたか分からん中古のもんなんかぜったい着たらあかんて言うわ」
「おれも中古のなんか着たことないわ。でも谷内はいつも同じ服着てるよな。あいつ、塾通ってるけど貧乏人やからな。ぶす男やし」
「あいつ、ぶすすぎてかわいそうなぐらいやわ。こないだ母さんといるところ見たけど、母さんも太っててぶすやった。あいつ、明日の塾来んかったらええのにな、来るかな」
やはり、むだに、彼らの声はやたらと大きいのだ。なんの感動ももたらさないスマホゲームを惰性でやりながらもわたしの心はスマホのなかにない。もし感情に色がついていて目で見えるなら、もやもやした灰色がかった弟への不快感がここにあるのは確かだった。弟はなんでそんなに大きいのだろう。弟はこどもの王さまのようだ。弟の心は肥大してみにくく膨らんでいる。安直に言って、母は弟を甘やかし過ぎたのではないか。甘やかされ過ぎ、と書いたポストイットを脳内で弟の頭に張りつける。ふさふさの黒髪についたそれは粘着が弱くてすぐに剝がれがちだけど、それでも弟は頭にそのポストイットをいくつかゆらゆらさせているのに気づかず、嬉しそうに谷内くん、の悪口を吐いている。
きのう、母は新しいエプロンを着けていた。百貨店で安くなっていたのだという、白地にピンクの薔薇もようの綺麗なエプロンだった。母はそれを着けて、きのうの夕食を作っていた。母は、不幸な感じがしない。絶望している感じがしない。むしろ、せわしなく幸福な感じがする。でも、母は子育てを失敗した。いいかわるいか、幸福か絶望か、肥大か卑屈か、方向は違えど、わたしも弟も間違っている。
「おれ、あれしてみたいねん、ホームレスにお金投げつけるやつ」
「ああ、小銭投げんねやろ?あいつら喜んで拾うかなあ。見てみたいわあ。その遊びしてみようや。駅の裏の、郵便局のあたりのところにあいつら段ボールしいて寝てるやろ。今行ったらおるんちゃう?」
つぶつぶをつぶしていくひとさし指は止まらない、けど、大声で嬉々としてそんなことを話す弟にしずかに引いてはいる。弟が話しているのは、たとえばカエルのおしりに爆竹をつっこんで殺すいたずらとそう大差ないことなのかもしれないけど、それはさすがによくないだろう、とお姉さんは思う。顔をしかめて指をすべらせたタイミングでつぶ消えが炸裂し、ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!と耳ざわりな小動物みたいな鳴き声がした。ミー、とわたしも鳴きたい。そしたらだれかがわたしを保護すべき小動物のように思って拾ってくれるだろうか。拾ってくれないのが分かっているから、ミーと鳴かずに、死にたいと呟く。
でも、喉がかわいた。
喉がかわいたからお水を飲みたいな。
でも、むしろ、姉ならば弟をいさめないといけないのかもしれない。人をばかにするようなことはしてはいけないと諭さないといけないのかもしれない。でも、気概を持つための気力がない。それに、友だちが来ているときは部屋から出てくるなと、弟はこないだぷりぷりと怒っていた。ニートが家にいるなんて恥ずかしいとぷんすかしていた。正確にはニートではなく、ベルトコンベアにのって流れてくる弁当におかずを詰めていく工場のバイトをしばしばしているのでフリーターなのだが、週の多くを家で過ごすわたしを弟はニートというあだ名で呼ぶ。弟は月謝の高い有名塾に通う小学生なのだからきっと将来有望なのだ。わたしと違って、高学歴とされる大学をきちんと出て父のような一千万円プレーヤーになると信じきっているのだろう。
だけど、喉がかわいたのだから、部屋を出ていってリビングを横切ってキッチンで水を注いでもいいのだ。なんなら、おやつの時間よお腹がすいたでしょうと、工場で詰めているお弁当を二人ぶんあげたっていいのだ。でも、気概を持つための気力がないのだ。
だから、わたしはだめなのだなあと雑な結論づけをし、喉がかわいたにもかからわず水を飲みにいけないので仕方なくまたベッドに入った。湿っぽくて暑いので、うすいタオルケットだけを体にかける、本当は頭まで全部包んで隠れてしまいたいのだけど、暑いので胸のあたりからタオルケットをかける。眠りについてそのまま死んでしまえればいいのに。有望な未来のないいいかげんなわたしはむしろ死の方が希望に近いのに、規則正しい寝息を立てて羊さんが飛んだのち、また目を覚ましてしまう。
がちゃ、と、部屋の扉を開けられる音で目が覚めた。からからになった喉がひりついていて、それに中途半端に何度も眠ったせいで少し頭痛がした。薄目を開けると部屋に入ったきたのは弟だったようで、なにか文句を言いにきたのかと眠っているふりをした。ツブ!ツブ!が漏れ聞こえていたとか、物音がしてニートがいるのが危うくバレるところだったとか、そんなことでも言いにきたんだろうと目を閉じる、でも、体重がかかったベッドが前に傾くのを感じたあと、弟はばっとタオルケットとパジャマをめくりあげ、わたしの胸をぬる暑い空気にさらしたので、驚いて目をぱちくりと開けた。向かいにはやけくそになった子どもの目があった。わたしの目とその目は合わず、その目はふとしたことから野生を思い出した動物園の動物のようにだらだらとよだれを垂らして胸を見ているようであったけれども、その髪や服がごみのようなもので汚れていることにも驚いた。それを意識すると生ごみっぽいくさったような臭いが感じられて、一言も発せないまま乳首を吸われた。
「え」
おまえ、もしかしてホームレスの人に小銭を投げつけてきて反撃されて逆上してるのかとか、わたしより小さい弟が上にのっかって乳首を吸うって面白い絵面になってるんじゃないだろうかとか、なんの気持ちよさもないわ、とか言葉は心をめぐった。でも結局のところわたしの心は深いところではなにも思ってなくて、え、と言ったかぎり何の言葉も出なくて、えーと思いながらかつて母乳を吸っていたようにちゅうちゅうと乳首を吸う弟の頭を見ていた。引くわ、と思いながらふさふさの黒髪を見ているぐらい冷静だった。ネズミのかあさんがたくさんの子を産んで、子ネズミにちゅうちゅうと乳を吸われているときぐらい気力を手放していた。でも、どこまでやるのかこのばかはと思っていたら、弟はズボンをばっと下ろして、パンツも下ろしたので、もっと引いた。大人の男はベルトをしているから脱ぐのに時間がかかるのにこのお子様はと思って、突き出たものの大きさも子ども仕様であることに心のなかでうすく笑った。弟は一生懸命で目も合わなかった。
「え、なにそれ、入れようとしてるの?」
 思わず尋ねると弟は顔をさっと赤らめ、うるせえと言ってわたしの頬を叩いた。なんだよってさらに気力がなくなって、疲れたぬいぐるみみたいになった。こいつ精子出るのかなとか思うけれど、もう投げやりでどうでもよくて、弟がわたしのパジャマのズボンとパンツをずり下ろしてマンコにしょぼいチンコを入れようとするのを見ていた。子どもらしい大きさのチンコだった、それをぶら下げた人が下手くそに腰を振っていた、非常にばからしい。気持ち悪い。でもどうでもいいやって、わたしの心もマンコも無関心で、弟の未来を憂いている。
あー死にたい死にたい死にたいね。