昔、コーヒーは苦くて嫌いだった。
私はどちらかというと甘党だ。だから、食後にほっこりしたい時にはホットココアが定番だった。子供の時から母が作るバンホーデンのホットココア。決して水だけで割ったりせずに、少しパウダーを練ったら後は牛乳でコクを出す。あれを飲んだら、もはや自動販売機の水っぽいココアは飲めたもんじゃない。
そんな大のココア好きの私。成長してもやっぱりココアが好きだった。さすがに二十歳を超えて、甘すぎるのも辛いなと思い始めた頃には、食後の飲み物が半分はホットティーや緑茶になった。大人になったのだと思ったけれど、やっぱりどうして、コーヒーだけは、あの苦さがダメだった。

そんな私はコーヒーに憧れた。コーヒー牛乳なら飲めるので、それからまずは…と挑戦しても、やっぱりブラックコーヒーにはたどり着かない。海外ドラマが好きな私には、登場人物たちが職場で飲むコーヒーがとてもスマートに見えた。

あれから10年。30代になった私は今や朝には毎日ブラックコーヒーを飲む。あれだけ憧れても飲めなかったコーヒーが今ではとても身近になった。インスタントコーヒーはいつも買い置きしている。

実は25歳からつきあい始めた彼が、ブラックコーヒー派だったのだ。別に彼に強制されたわけではない。彼はとても穏やかな人で、決して自分の好みを他人に押し付けたりしない人だった。私のココア好きを認めてくれたし、一緒に楽しむこともした。私がはじめ苦いブラックコーヒーが飲めないことも、彼はなんとも思っていなかった。

でも、彼は私の家にくるたび、コーヒーを飲む。だから私の部屋にはいつもコーヒーがあった。彼と二人、一緒に買い物に行って、切れているコーヒーを補充する。日曜日に近くのスーパーに二人でぶらぶらと散歩がてら買い物にいくことは、私にとってはとても幸せな時間だったのだ。

ご飯を食べた後、彼はパソコンを広げて仕事をする。彼の会社は忙しく、私の家に来ていても彼はしきりにメールのチェックやシステムのチェックを行なっていた。そんな時、私は彼にコーヒーを入れて上げた。
簡単なインスタントコーヒー。別にミルで豆を挽くなんてことをするわけでもない。ティースプーンですくって、沸かしたお湯を注ぐだけ。

私がコーヒーを出せば彼は必ず「ありがとう」と言ってくれた。コーヒーを飲まない私がいれたコーヒーはひょっとしたら薄かったかもしれないし、濃かったかもしれない。それでも、文句を言われたことは全くなかった。

そうして私は自分のために紅茶を入れる。そして二人でちょっとしたお茶菓子をつまむ。お腹もいっぱいで、口直しの甘いクッキーと紅茶の香り。そして、コーヒーの香り。
仕事をする彼の体にもたれながら、私は両手でもった温かいマグカップから紅茶を飲んだ。二人で買い物に行くときのように、なんだか優しい時間だった。

そんなことが数年も続くうちに、夕食後に部屋に漂うコーヒーの香りが好きになっていた。以前として苦くて飲めない私だったが、コーヒーの香りとクッキーやチョコレート、私の好きなチーズケーキがとてもよくマッチするように思えたのだ。

この頃には、甘いお菓子がある時にはココアは飲まなくなっていた。もちろん、ココアだけで飲むことはよくあったけれど、甘いお菓子と甘い飲み物をダブルで摂取できなくなっていた。少し歳をとったと思う。

もちろん、やっぱり紅茶は好きで、紅茶の香りとお菓子もよくマッチしていたと思う。でも、コーヒーの香ばしさがとても好ましく思えた。

そして、そういう日が続いた時、私はどうしても、その日に買ったちょっとした贅沢、美味しいと評判のお店のチーズケーキと共に、コーヒーを飲みたくなってしまったのだ。
コーヒーカップ一杯分も飲めるかはわからない。私は彼にねだって、彼の分を少しわけてもらった。
やっぱり苦かった。でも、チーズケーキと一緒に食べるとその甘さでちょうど打ち消されて、苦くてもなんだか癖になりそうな気がした。
そのときはそれ以上飲めず、一口だけもらって彼に残りは返した。

意外といけるかもしれない。苦いけど妙に癖になる。そう思って以来、彼が泊まっていった翌朝にコーヒーを入れて飲む様をみていると、それがとてもとても好ましいものに思えた。
漂ってくる香ばしい香りに誘われながら、私は彼のコーヒーをちょくちょく分けてもらうようになった。

幸せな日はずっと続くだろうと思っていた。

でも、ある日、彼は突然、私の前から消えてしまった。事故だった。
優しい人だった。決して怒らなかった。なのに、私が怒っている時にはその裏の気持ちを優しく抱きしめてくれるような人だった。私にはもう、他の人などいないと思ってたのに。

私の部屋に残る彼の私物。結婚の具体的な約束はまだだったけど、そのうちそうしようとお互い暗黙の了解だった。
彼の私物をみると、思い出して悲しい。処分しようかと思ったこともある。でも、どこかに彼を身近に感じていたくて、どうしても捨てられなかった。目につくと辛い間は段ボール箱にいれて、押し入れにしまった。いつか、私がもう少しこのショックから立ち直った時に、きっと彼と一緒にいた証をもう一度この手に残しておきたいと思うだろうと思ったから。

私物のほとんどを片した後、目につくのは、彼の好みでかったコーヒー。
毎日飲むため、食卓の上にほぼ出しっ放しのインスタントコーヒーが否応なく目に入った。毎朝、そして夕食後、コーヒーを飲んでリラックする彼。そんな彼と過ごす私の大事な時間。
そんな時間をまた過ごしたくて、気がついたらコーヒーをいれていた。マグカップいっぱい分。チーズケーキもチョコレートも何もなかった。彼がすきなブラックコーヒー。

苦かった。私にはやっぱりコーヒーは辛いなと思うほど苦かった。でも、飲んでいる間は、彼と一緒にいられるような気がして、結局マグカップいっぱい分を全て飲んでしまった。

はじめて飲んだ私にとっては大量のコーヒー。
胃がなんだか重くて、その日はなかなか寝付けなかった。コーヒーのカフェインも効いていただろうし、彼を思い出して心が乱れていたのもあるだろう。

胃もたれしても、苦くても、私は毎朝コーヒーを飲むようになった。
夕食後も欠かさない。苦いのが苦手だったけれど、飲むのは必ずブラック。

コーヒーを飲んでいるうちは彼と一緒にいられる。

数年、ずっと欠かさず飲んでいるうちに、私の体はコーヒーに慣れた。
今では、仕事の合間にもブラックコーヒーを飲む。その昔、憧れたテレビドラマのように。
そうして、彼の習慣だったはずのものが、私の習慣になる。彼の一部はこの先もずっと私の中に残る。

この秋、私は仕事場で出会った人と結婚することになった。
彼のことを忘れたわけではない。でも、もう先に進まなければ。
寂しくなんてない。だって、彼は私の中にずっと、一緒にいるのだから。


これから先も、誰と結婚しても、どんな生活をしても私はコーヒーの習慣をやめないだろう。
夫になる人は、彼とは全く違う人だけれど、彼と同じで私の心に耳を傾け、一緒に歩んでいってくれる人だ。

幸せになるから。