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 a2の突然の訪問に驚いた理奈は言葉を失い、口を半開きにして茫然とその姿を眺めていた。手を動かした隙に雑誌が音を立てて閉じた事に反応して我に返る。

 理奈はa2の美しい顔に見惚れていた。先日ここに訪れた時は顔半分がゴーグルで隠れていた。それでも整った顔をしていると感じたが、今日はその顔を見る事が出来て、而もそれが想像以上で、理奈は驚き見惚れてしまったのだ。

 形の整った濃い眉。目尻にかけて幅が広がっているはっきりとした二重と、ぱっちりと大きくやや目尻が下がり気味な瞳に長い睫毛。そして広角の上がった、縦皺が入り潤いのある苺の様な唇。肌が白く、a2はフランス人との混血の少女の様な顔立ちをしていると、理奈は思った。


 …キレイな顔だなぁ…羨ましい…。


 それにしても、理奈には不可解に感じる事があった。それは、父親はまだ仕事から戻っておらず、母親は近所へ買い物に出掛け、現在この家には理奈が独りでいる為、用心として玄関には鍵を掛けていた。だが、何時の間にかa2はそこに立っている。先日の夜中の件といい、この人物はどうやって家の中へ入って来ているのだろうか。

 そしてまたしても足には靴を履いたままだ。だが、もうその事で目くじらを立てたりはしない。言った所で、この人物がそれに応じて、靴を脱ぐとは思えないからだ。(水虫になって苦しめ! と、心の中で密かに呪いをかけてみる。) そうする事で理奈の気が収まった。

 そんな事を考えながらも、意識は赤い糸へと移って行く。

 この日が来る事を忘れていた訳では無いが、約束の期日を過ぎてもa2は現れず、もしかするとこのまま訪れないのではないかと密かな期待も抱いていた。いくら考えても一向に出て来ない答えに、悩まされる日々から抜け出せる事が出来るのならば、それに越した事はない。このまま何事もなく、また平穏な日々に戻れるのではないかと願っていた。それに加えて、最近の悠の態度や、芳朗や裕弥など恋の悩みに忙しくしていた理奈は、赤い糸よりもそちらの方に意識が行っていて、正直、赤い糸の事を考える時間が次第に減っていた。一体、何から話せば良いのか、頭の中は真っ白で何も思い浮かばなかった。

 だが、a2に鋭い視線で見つめられ、答えを求められている。その焦りから出た言葉は、全く気の抜けたものだった。

「…あ、こ、こんにちは」

 理奈のその一言で、a2は理奈の現状を把握した。そんな理奈を情なく思い、血管が浮き出るのを必死で堪える。

「充分な時間を与えた筈だが、君には無意味だったらしいな」

 a2は怒りを通り超し呆れた顔をする。そして机へと歩み寄り椅子を引くと、それを理奈へと向けて腰を下ろした。脚を組みその膝の上へ両手を置いた。

 a2が目を伏せて、辺りには静かな空気が流れる。その僅かな時間が理奈にはとても長く重たいものに感じ、まるで学校を遅刻して登校した時のような、あの嫌な感じを味わっていた。

「………」

 理奈は体勢を起こしてベッドの縁に座った。

「判っているとは思うが、これ以上時間を掛ける訳にはいかない。今、この場で答えを聞かせてくれないか」

 a2は視線を上げ理奈を真っ直ぐに見つめた。有無を言わせぬ凍て付く視線を送り無言で威圧する。

 その視線を受けて理奈の心臓は縮み上がり、獣に狙われた獲物の様に、張り詰めた空気に動く事さえも出来ないでいた。出来る事ならこの場から逃げ出したかった。

 無意識に息を止めていた事に気づき、静かに息を吐き出し、落ち着く様にと自己暗示をかける。そして大きく一つ深呼吸した。

 以前から理奈が答えを出せないのには、きっと何処かに原因があるからではないかと自分でも考えていた。

 ある日突然a2が現れて、運命の赤い糸の話をし、どちらかを選択するよう指示された。何を基準に選んで良いのかも判らず、答えを出せぬまま今日まで来てしまった。今ある情報だけでは判断する事が出来ない。何かが欠けているのではないかと思えた。納得出来る答えが出せるように、a2に全ての事を話して貰いたい。そう思い、理奈はやっと口を開いた。

「全ての事を教えて下さい」

「…もう話した筈だが?」

 理奈とa2の間に異様な空気が漂い、何処まで踏み込んで話せば良いのか、視線だけで会話の駆け引きが行われる。


 あぁっ、もう、こうなったら…!


 怖い目で睨まれたって気にしない。a2が答えてくれるかどうかは別にして、開き直って自分の知りたい事を全部口に出してしまおう。 理奈はそう考え真っ直ぐにa2を見つめる。

「あたしあれからずっと赤い糸の事をちゃんと考えてたよ。誰かは教えられないけど、どちらかを選べって理不尽な事言われて、そんなの選べる訳無いじゃん! って思ったけど、そこはもう追及したって仕方ないから素直に従う事にしたよ。けどやっぱり納得いかない事もあって、どうしてあたしなんだろう?…て。モテモテで誰と付き合うか選ぶのに困っちゃう、て人なら判るけど、どう考えても阻む者なんているように思えないんだけど…。」

 a2に向けて、理奈は一気に不満を開放する。

「それと前から気にかかる事があって、そこんとこどうなってるのかな? て。
 浮気してる人とか離婚や再婚してる人とかどうなってるの? 糸は二本じゃないの? 始末は…?」

 赤い糸に関して前から疑問に感じていた腑に落ちない事をぶつけてみた。

「?」

 二人して混乱している表情を浮かべる。

「そういう人もいるでしょ? でも始末されてない人もいるでしょ? どうして? あたしなんてまだ何も起きていないのに、どうして糸が二本になるの? 全然理解出来ない!」

 顰め面で姿勢をのりだして訴える理奈。

 a2は理奈が何を言っているのか理解できなかったが、話を聞いている内に理奈の頭の中が見えてきた。それで自分の中で納得して軽く頷いた。

 理奈は状況だけを考え混乱している。そこと赤い糸は関係ない事を説明しなければならない。

「確かに浮気や結婚を何度もする人は多くいる。だがそこと赤い糸は関係ない」

「?」

「君は関係を持った者とは必ず赤い糸で結ばれていると思っているのか? それでは赤い糸の意味がなくなる。どれだけ交際の人数が多かろうが、結婚を何度しようが、その時に存在している赤い糸は一つだけだ。出遇いの回数と赤い糸は比例しないという事。そこを勘違いしていないか?」

「??」

 a2の言葉で目から鱗が落ちた。


 そっか…そういう事なのか…。


 疑問に感じていた事の謎が解けて、理奈の気持ちは少しだけ落ち着いた。

 理奈の姿に重ねて、a2の目には、パンパンに膨らんでいた風船がシュルシュルと萎んで行くのが見えた。


 あと…一番知りたい事がある……。


 理奈はどうしても頭に引っ掛かって消えない言葉の意味を訊ねる。

「始末される糸の事…。“始末”って、どういう事なの? 道を変更して、その人に別の相手を紹介するの? それとも…」

 理奈は言いかけて口を噤んだ。言葉の響きから、何か非道な事を仕掛けるのではないかと感じ、そんな事は起こらない様にと願ってa2の言葉を待った。

 理奈の要請にa2の表情は一層厳しくなる。思慮すると共に、その視点が定まらず眼晴を左右へと動かせた。

「それは私の仕事の部分だ。君は知らなくても良い事だ。ただ選べば良い」

 a2は理奈の顔を見ようとはしない。

「そんなの納得できない。全てを把握しなければ、答えなんて出せないよ。あたしにだって責任があるもの。知る権利はあると思う!」

 その事を渋ってなかなか教えようとはしないa2に、理奈もむきになって追及する。

 それでa2は淡々と口調を変えずに話す。

「それを聞いたからといって答えが変わるとは思えない。それに、君に意味を理解出来るとも思えない。第一、君の中ではまだ答えが出せずにいるだろう? 始末の意味を知ったからといって何のヒントにもならないし、寧ろ君の場合は混乱するだけだと思えるが」

 もしそうだとしても、理奈だって簡単には譲れない。自分が拘っている限り、全てを熟知しておきたかった。

「あたしの意思は変わらない」

 頑固な理奈に煩わしく思ったが、こんな問答に時間を掛けているのも馬鹿馬鹿しい。悠の時と同様、どうせこの間の記憶を無くしてしまうならば、どちらにしても結果は同じ。と、a2はこのタイプの人間に半分嫌気が差していた。そして考えを切り替えると、渋々口を開いた。

「確かに君の責任は多大にある。君の選択によって彼らの人生は大きく変わる。選ばれた者は君と赤い糸で結ばれ運命を共にする。選ばれなかった者は…灰になるのだ」

「灰?」

 言っている意味がよく理解出来ない。


 灰って、物が燃えた後に出来る滓の事…つまり……。


「…殺すの?」