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 夕食もろくに取らず、理奈は自分の部屋へと閉じ籠っていた。

「どうして…」

 両手で自分の体を抱き締める様に二の腕を掴む。帰り道で悠に強く抱き締められた感触がまだそこに残っていた。見かけによらず、鍛えられた胸板に顔を埋め、不安定な感情でいた所に、守られているという、甘い安心感を抱いた事を思い出し体が熱くなる。

「やだ、何考えてるんだろう…」

 理奈は平常心を取り戻す為、赤くなった頬を両手で覆った。

 悠は結局、あの後何も言わずに去って行った。理奈はどうしてあの時、悠がいきなり自分の事を抱き締めたのか理由が判らなかった。けれど、何も言わずに去って行く悠を呼び止める事も出来ず、ただ後ろ姿を見つめているだけだった。

 
 どうしよう…。ハルの考えてる事が判らない。今迄こんな事無かったのに。小さい頃から何時も一緒だったし、単純なハルの事なんて、何でも手に取るように判ってたのに。
 明日どんな顔してハルに会ったらいいんだろう…。


 二人の距離のバランスが崩れてしまったようで、理奈は悠に対してどう接して良いのか困惑していた。

 気持ちが落ち着かず、椅子の前脚を何度も軽く浮かせては、カタカタと鳴らしている。

「理奈ーっ! 先生がいらしたわよ」

 言われて、今日が裕弥の都合で予定を変更された日だという事を思い出す。どうしてこんな日に限って、裕弥に会う事になるのか、理奈は頭の痛くなる思いだったが、そんな心境の時でさえ、鏡を覗き込み素早く身形のチェックをする事を忘れない。そして気持ちを切り替える為に、両手で軽く3回頬を叩き、自ら気合を入れた。

「よしっ!」

 ドアが開いて裕弥が部屋へと入って来る。

「今晩は」

「こ、こんばんは…。よろしくお願いします」

 裕弥は何時もと何も変わらず爽やかで落ち着いている。だが、そんな裕弥の顔を見ている内に、理奈は訳もなく歯痒さが込み上げ、それが徐々に大きくなってゆくのを感じた。

 頭の中に女性と一緒にいた裕弥の、あの光景を思い出して思わず目を逸らした。そしてその光景から有らぬ方向へと意識が働いて行き、理奈の胸は大きな鉛が詰まった様に重苦しくなる。

「今日はこの間の復讐から始めようか」

 理奈の心の変化に気づく事も無く、早速、裕弥は先週に勉強したプリントと同じ物を用意し、理奈にそれを差し出した。そして何時ものように、折り畳みの椅子を出して座ると、鞄の中から読みかけの小説を取り出し、理奈の邪魔にならぬよう静かに読書を始めた。

 気が進まぬまま、理奈は渡されたプリントの問題を解く為机に向かう。…1分…5分…8分、時間が経過しても一向に理奈の手元は動かない。文字は視界に入っているのだが、それが頭の中まで入って行かない。感情に負けて体が他の事を受け付けない。

 
 せっかく態々教えに来てくれてるんだから真面目に勉強しなきゃ。麻生さんに失礼だね…。


 自分に言い聞かせて勉強に集中しようと努力するが、どうしても数式が頭の中へ入って行かない。理奈は息が詰まりそうになり、遂に言葉を吐き出した。

「……麻生さん」

 呼ばれて裕弥は本を読んでいた視線を止め、それを理奈へと向けた。

「どうした?」

「………」

 理奈の浮かない顔を見て、グレーの革製のブックカバーに付いている紺色の紐を、読みかけていた本の頁に挟みそれを膝の上に閉じると、理奈へと体勢を向けた。

「何? 解らなければ後にして、終わってから纏めて教えるから」

「違うんです…」

「?」

 理奈の考えている事が掴めず、表情からそれを読み取ろうと努める。

 そんな裕弥の優しさを含む眼差しが理奈には切なく、涙が浮かびそうになるのを必死で堪え、真っ直ぐに裕弥を見つめ返した。

「麻生さんが言ってた事は嘘だったんですか? それとも急に状況が変わったんですか?」

「……?」

 唐突に話を切り出されて一体何の事を言っているのか、裕弥には理解出来ないでいた。

 一方、一度抑えを突き破って出てきた理奈の想いは止めどなく溢れ出し、哀れな言葉となって裕弥へと投げ掛ける。

「麻生さんは辛い失恋をして、今は彼女がいないって言ってました。なのに綺麗な女性を連れて歩いてた。…麻生さんの彼女を見る目がとても優しかった。あれは麻生さんの彼女じゃないんですか?」

 感極まって語尾が震え、理奈の瞳から遂に涙が溢れ出す。

「理奈ちゃん…?」

 感情を剥き出しにしたその顔に裕弥は驚いて凝視する。そこには間違いなく嫉妬の色が現れていた。真実を必死に見つけ出そうとしているその切ない瞳から、制御出来なくなった感情が溢れ出している。こんなにも強く、自分への想いをぶつけてくる理奈の姿を今迄見た事は無い。それを目にし裕弥は初めて理奈の想いを知るのだった。

 僅かな沈黙の間に、次から次へと理奈の涙は止まる事を知らずに零れ落ちた。

 そして部屋には重たい空気が張り巡る。

 理奈の昂ぶった感情を鎮めようと、裕弥は静かな口調で言葉を掛けた。

「落ち着いて、言いたい事は伝わったから。感情的にならずに話そう。知りたい事があればちゃんとそれについて答えてあげるから。ほら、ゆっくり深呼吸して」

 そう言って、裕弥は優しく理奈の頭に掌を当てた。その手から裕弥の温もりが伝わり、軈て理奈も落ち着きを取り戻す。そして大きく息を吐いた。

「大丈夫?」

「……はい」

「…多分、この間の偶然会った時に、連れていたコの事を訊きたいんだね?」

 裕弥は襟足を撫でながら、少し上目遣いで理奈の顔を窺い見る。

「………」

 言葉無く理奈は頷く。

「あれは彼女じゃないよ。あの日もたまたま偶然会って一緒にいただけで、ただ理奈ちゃんの言うように俺の彼女を見る目が優しかったとしたら…、それは彼女が以前付き合っていた相手で、あの日それまで彼女に抱いていた負の感情が清算されたから。て、言っても何の事だか判らないだろうけど…」

 物静かな口調で、何かを思い浮かべているのか、伏し目がちの繊細な眼差しで、困った様に微笑んだ。

 理奈はまだ涙の跡が乾かないその潤んだ瞳で、裕弥を真っ直ぐに見据え、その心情を読み取ろうと努めた。

「理解できた?」


 元カノ……。


 裕弥が覗き込む様に顔を向けると、理奈は取り乱した事を恥じて、視線を合わす事が出来ずに頷いた。

 裕弥は椅子に座ったまま大きく伸びをすると、

「もう少し時間を置いてから勉強を始めようか。気持ちが散漫して勉強する気にはならないかもしれないけど。俺も一応家庭教師だからね、勉強を教えずに帰るわけにもいかないし」

 そう言って優しく微笑み、理奈の気持ちを解すと共に、部屋の空気も緩和させた。

「はい。ごめんなさい…反省してます」




 窓を開けると緩やかに冷たい夜風が部屋へと流れ込む。その風を受けて理奈の髪が僅かに揺れ動いた。理奈の胸の中に立ち籠めていた霧は、裕弥の言葉によって清算し、すっかり晴れていた。

 そんな理奈の清々しい横顔を見つめる裕弥の中には、理奈の心情を知る事により、自覚できぬ程の密かな情意が生じて行くのだった。