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 ベランダのある南側のガラス戸が小さく音を立てて開き、紺色のカーテンが風に揺れる。

 机の上の時計は、午前1時49分を指している。天は黒い衣を羽織り、街は既に静かな眠りへと就いていた。にも拘わらず、そのカーテンの裾から黒い靴が覗き、冷たい風と共に部屋の中へと忍び込んで来た。

 ベランダから侵入して来たその人物は、住人に気づかれない様に、充分に注意を払い、足音を消して接近する。そして床に布団を敷いて寝ている悠を見て、眠っている事を確認すると、ベッドの横へ立ち、a2を覗き込んで額に手を当て体温を計った。

 その手の感触にa2は目を覚ます。

「お前…!」

 驚きの余り念わず声を漏らす。

 話し声で、横で寝ている悠が起きては困るので、その者は慌てて自分の口に人差し指を押し当てて、a2に声を抑える様に促す。

 二人して悠を見た。

 幸い、今日の練習試合で疲れていた悠は、侵入者が部屋にいる事やa2の声には、目を覚ます事もなく熟睡している。

 その姿に胸を撫で下ろす二人。

「どうしてここに?」

 悠を起こさぬ様、今度は声量を絞った。

「上官に訊いて来たんだ。初めにお前を発見したのは自分だし、お前が医療部を抜け出して、行方が判らなくなった事を聞いて、気になってね。連絡が取れて居場所が判明したから、様子を見に来たんだ。どうだ?」

 頼もしい笑顔の反面、その眼には哀矜の光を含んでいた。

 それはa2を心配して訪れたJ168だった。

「ああ、少しは楽になった」

 夕食に玉子粥を作って貰い、その後、解熱鎮痛薬を服用したa2の症状は、扁桃腺はまだ痛むものの手の痺れや冷や汗は無くなり、熱が多少下がってその分だけ楽になっていた。

「そうか。で、どうする? 連れて帰ろうか?」

 J168の言葉によって苦いものが心に広がる。

「…正直、医療部には戻りたくない。こんな失態を晒して、のこのことは戻れない」

「じゃあ、お前の部屋か?」

「………」

 a2は計策していた。

 ディスポウザーには段階があった。ベテランや成績優秀な者には多少の自由が与えられ、住む場所も本部の許可が得られれば、個人で生活する事が出来た。だが、それ以外の者は、司令室のある本部とは目と鼻の先の第二棟で、直ぐに本部に向かえる様、他の部所の者やディスポウザーを含めた寮の様な場所に居た。

 a2はまだ若く、第二棟から離れる事を今は許されていなかった。だが成績優秀な為、一人部屋を貰えていた。それが唯一の救いだ。(因みにJ168は二人部屋だ。)そこへ戻った所で、医療部へ戻るのと大差はない。

 それに意識は戻ったものの体を動かすのはまだ辛かった。いっそのこと病人を装って、ここで厄介になった方が得策ではないだろうか。

 J168は躊躇しているa2を見て、別段に急かせるつもりも無かった。

「まぁいい。とにかくゆっくり休めよ」

「え?」

 理由を訊いて来ないJ168に少し驚いた。だが、何かを感じ取ってくれたのだろうと信用する。それより、a2はずっと気に掛かっていた事を訊ねた。

「19歳の専門学校生の所へ出向かなければならなかったが、それが出来なかった。あの任務は誰が片付けたのか聞いてないか?」

 J168は数日前、帰宅途中で見かけたあの光景を思い出す。そして来る前に、上官からa2の状況を聞いており、その問に対しても正直に答えた。

「ああ、あれはE33が片付けたらしい」

「………」

 E33とはベテランのディスポウザーだ。その者に自分の仕事の始末をして貰ったと聞いて、何故だか劣敗感を生じた。それでa2の顔が曇る。

「それで、彼は何処にいたんだ?」

「どうやらサークルの仲間と温泉へ行っていたらしい。帰って来た翌朝、学校へ向かう所をE33が接触したんだと」

「………」


 温泉か…。いくらデータ通りに探しても見つからない筈だ。


 予想外な居場所に、探し出せなかった悔しさが込み上げてくる。

 J168は眉間に皺を寄せるa2の顔を見て、完璧主義なだけに他人に仕事を取られた事を悔やんでいるのだと直ぐに察知し、それを宥める為に口を開いた。

「もう済んだ事だ。今は任務の事は考えず、静養に専念しろよ」

「………」

 J168の言いたい事は伝わっていたが、その言葉の中に同情が垣間見え、素直に返事が出来なかった。

「それとコレ」

 J168はポケットから二つ折りした小さな白い紙袋を出して、a2のお腹の上にポンと投げる。

「解熱鎮痛薬と骨折に効くサプリ。乳製品と糖分をよく摂れだって」

 医師から預かってきた内服薬だった。

「じゃあ」

 そう言って右手を軽く挙げると、J168は入って来たベランダから出て行った。



          ✵        ✴       ❉



 a2は天井を凝視して、これからについて混沌と思いを巡らせた。そして横にいる悠の寝顔に視線を向けた。


 ここでゆっくりしている場合ではないな…。


 そう考えると、重たい体を無理にお越し、出窓に置いてあるゼリー状の栄養補給飲料と水の入ったペットボトルを手に取った。そしてゼリー飲料を一気に体内へと送り込み、一息ついてから解熱鎮痛薬とサプリを服用した。


 明日はヨーグルトとジャムを要求してみよう…。


 これから予測できる結果に感化されぬよう、a2は改めて無情に徹する誓いを立て、再び眠りに落ちたのだった。