3


 土曜日の午後から悠はサッカーの部活に出ていた。明日は練習試合が行われる為、今日は何時もより早めに練習が切り上げられた。

 深重な曇り空は今にも悲鳴を挙げて、焦慮の粒が飛箭の様に降り注ぎそうだ。大事な試合前、雨に濡れて風邪を引いては困る。悠は家路へと足を速めた。

 高台の坂を何時もの様に下って行くと、前方のガードレール脇にある、黒い物体が視界へと入って来る。天候が悪く辺りはすっかり暗くなっていた為、それが何かは直ぐには理解出来なかった。しかし徐々に近づいて行くにつれ、それはこちらに背中を向けて屈んでいる人だという事に気づく。

 その人影はガードレールに右手を伸ばし体を支え、頭を項垂れて、微動だにせずそこに小さく蹲っていた。

「?」

 こんな所で一体何をしているのだろうかと不審に思いながらも、遠目に様子を窺った。

 その者の横まで来ると顔の表情が見え、顔色が優れない事に気づき、心配になって更に近づいてみる。

「あの…大丈夫ですか?」

 顔を覗き込むと、それは二十代くらいの、とても綺麗な顔をした人だった。だがその美しい顔は血の気の退いた蒼白となり、この時季にも拘わらず、薄っすらと額に汗を浮かべ、僅かながらに荒い吐息を漏らしている。

 尋常ではないその様子に慌てて悠も身を屈め、相手の肩を起こし頭を擡げた。

「あの! 大丈夫ですか?」

 再び強く返事を求めるが、相手は顔を歪めたまま何も反応をしない。そして見る間に汗はどんどん粒を大きくし、額からこめかみへと伝い落ちた。

 悠は不安になって、ガードレールに掛けているその者の手を取った。その手の冷たさに驚き、念わず体が小さく退く。

 そのすらりとした白い指先は氷の様に冷たく、血の通っている人間の手とは思えない程だった。

「待ってて下さい。今直ぐ、救急車を呼んで来ますから!」

 学校では携帯電話の持ち込みは禁止されている為、生憎今は携帯電話を持ち合わせていなかった。何処か近くの家に助けを求めようと立ち上がると、履いているジャージを掴まれた。

「………いい」

 喉から絞り出す様に、声にならない声で相手が拒否をする。

「えっ? 何?」

 余りにも弱々しい声に、言葉が聞き取れず訊き直した。

「救急車は呼ばなくていい。大丈夫だ」

「大丈夫って…。そんなに苦しそうじゃん。病院へ行った方が良いよ!」

 悠が心配してそう促すが、相手は悠を掴んだ手を緩めず、より一層力を強くして引き寄せる。

「…………」

 二人の言葉の空間を埋める様に、昨日から機嫌を損ねていた空は、遂にその蓄積していた不満を漏らし、アスファルトにポツポツと染みを作り出した。

 この天候で、見るからに体調の悪いこの者を、このまま放って置く訳にもゆかず、悠はその手を引き寄せて、自分の腕を相手の脇に滑り込ませ肩を抱えた。

「オレん家に行こう。ほっとけないから」

 言って、立たせようと体を押し上げる。

 相手は少し不審に顔を眺めていたが、悠の真剣な眼差しに思いが伝わったのか、今度は何も言わず、肩を借りて素直に立ち上がった。

 悠は体を寄せると、相手の体に硬い違和感を感じた。そして自分の肩に掛かる右手の指には包帯が巻かれている事に気づく。


 この人、怪我をしてるんだ…?


 それでこんなにも顔色が悪いのだと悟る。

 悠は荷物を右肩に掛け、左肩で相手を支え、足元をふらつかせる相手を気遣って、ゆっくりと家へ向けて歩き出した。



 軈て雨足は徐々に強くなって行き、二人の姿はそれによって掻き消されて行った。