2


 理奈は非常階段の踊り場にいた。

「ごめんなさい。一緒に廻る事は出来ないから…」

 相手と視線を合せる事無く俯いて告げた。

 朝のホームルームが始まる前に芳朗を呼び出し、先日の文化祭の件の返事をしていた。

 平日が創立記念日で休校だった為、その替わりとして、本日の土曜日が午前だけの登校日となっていた。

 昨日に引き続き、空には太陽の姿は無く、停滞した雲が空全体を低く見せている。それは昨日の出来事を連想させ、理奈の気分を沈ませた。

 昨日の出来事は理奈にとって余りにもショックが大きすぎて思考回路が止まってしまった。あの場では涙を堪えていたので、家に帰ると泣き叫び悲しみに打ち拉がれるかと思っていたが、確かに悲しいのに、何故だか一粒も涙を流す事は無かった。それに何の想いも溢れて来ない。もしかしたらそんなに好きでは無かったのかもと自問する。けれどその方が理奈にとっては都合が良い。

 どうしてしまったのだろう…自分でも判らない。心が何処かへ行ってしまったみたいだ。このまま何も考えずに裕弥への想いが消えてしまえばいい。そう願うだけだった。

 ただあの場の二人の姿がずっと脳裏に浮かぶだけ。その意識は自分ではどうする事も出来ないでいた。

 もう全ての厄介な問題から逃避したかった。

「判った…」

 芳朗は力無く答え、彼もまた理奈を直視出来ないでいた。二人の間に重たく気不味い空気が流れる。

 細かくその理由を伝えた方が良いだろうか? けれど、何か言った所で断るという事に変わりは無い。理由を述べたからといって、彼の気持ちを和らげる事など出来ない。それはまた理奈も同じ立場であり、その想いは充分に理解していた。


 どうして世の中上手くいかないんだろう…。皆が両想いだったら、武田もあたしも苦しい想いをしなくても済むのにね…。
 赤い糸が見えたら…そこだけ目指して進むのに……。


 色々な想いが交差して理奈は居た堪れなくなり、そこから去ろうとした時、擦れ違いざまに芳朗の顔を盗み見て念わず目を奪われた。


 おっ?


 レンズの向こう側には、理奈を真っ直ぐに見つめる瞳があった。近眼のせいか、(と、これは理奈の勝手な持論だが)その眼はキラキラと輝きを放ち、長い睫毛とはっきりとした二重瞼のその眼は、理奈を切なく映し出し、そこから彼の想いが伝わってきた。それで、その瞳に見惚れてしまった。

 それは時間にするとほんの僅かな数秒だろうが、理奈にはそれが数分にも感じられる程、心に強く印象づいた。

「じゃあ…」

 声を掛けたのは芳朗の方だった。その声で理奈は我に返る。

「あ、うん」

 何を言われたのか判ってはいなかったが、心情を気づかれまいとして慌てて返事をした。勿論、芳朗は断られた事にしか意識が働いていなかった為、理奈の思いには気づかず、そのまま背を向けて力無く去って行った。芳朗の背中が見えなくなった後も、理奈の頭の中では彼の眼が印象的で忘れられないでいた。


 武田って、眼鏡を外したら、もしかして結構可愛いかも…。


 理奈の頭の中に眼鏡を外した芳朗の顔が思い浮かぶ。

「………」

 実物を無視した勝手な想像にも拘わらず、描き出されたその端正な顔立ちに、思考回路が一時停止する。


 !
 いかん、いかん。あの眼に絆される所だった…。


 理奈は必死に残像を振り払おうと、頭を横に振る。しかし再びその形貌を浮かび上がらせた。そしてつい、過去の恋愛未然の歴代の男の子達の顔を思い浮かべて、その中に眼鏡無しの芳朗の顔も加えてみる。すると断トツにそのレベルが違う。

 やや首を傾げて顔を顰め、

「…あぁ、ちょっと勿体無かったかな?」

 本気とはいかないまでも、ちょっとしたミーハー心が口から漏れた。

 予鈴が鳴り、理奈も教室へと足を急がせる。

 逃した魚の大きさを考えながらも、一つの問題が処理出来た事に、内心安堵していた。