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 木曜日、午後8時52分。理奈は僅かな至福の刻を過ごしていた。
 
 部屋のドアをノックして、母親が顔を覗かせる。

「どう? 捗ってる? 今夜は肌寒いから、温かいお茶を持ってきたよ」

 母が持ってきたトレーには、バナナのパウンドケーキとキャラメルティーが載っている。

「ありがとうございます」

 裕弥が温和な笑顔で応える。

「冷めないうちにどうぞ」

 理奈の母もつられて、とびきりの笑顔をしてみせる。しかし笑顔を作る事によって顎の贅肉が強調されて、二重顎となった母の笑顔が、理奈には暑苦しいとしか思えない。それで理奈は恥ずかしくて肩を竦めた。

 スタンド付きのトレーをドア付近に置いて、母は部屋を出て行った。


 母がこんなサービスをするのは、うちには子供があたし一人で、若い男の子がいない為、好青年である麻生さんがお気に入りだからだ。


「じゃあ、お茶が冷めないうちに休憩しようか」

「はい」

 理奈はトレーを部屋の真ん中へ置き、座布団代わりにフカフカのチョコレート色のクッションを二人分用意した。

 早速そこへ座って、お茶を口にする。物静かに紅茶の香りを楽しんでいる裕弥の姿に念わず見惚れてしまう。そんな理奈の視線に裕弥が気づいた。

「どうした? 何か話でもある?」

「や、あの、甘い物大丈夫かなーって…」

 まさか、ここで見惚れていたとは言えず、咄嗟に、自分の気持ちを悟られない様にと焦って、意味不明な事を口走る。それに対して何の疑いもなく、裕弥は素直に答える。

「甘い物は、和洋関係なく大好きだよ」

「あたしも好きです!」

 裕弥の言葉に衝動的に反応する。言った後で、頭の中で都合の良いセリフだけを切り取って、今のはまるで告白のようだと感じ、勝手に盛り上がり赤面する理奈。

「あつ…」

 手で火照った顔を扇ぐ。

「あ、猫舌?」

「あ、いえ…」

 理奈の心情が読み取れない裕弥との間には、ずれた会話がやり取りされる。

 この6ヶ月間、勉強の合間の休憩に話す事といえば、勉強のコツと他愛も無い雑談だけ、理奈は裕弥のあまり多くを知らなかった。お茶で和やかな雰囲気になっている事だし、この際勇気を出して、今迄触れなかった一番知りたい事を訊いてみようかと思い、小さく深呼吸をするとその核心に迫った。

「あ、麻生さんは…彼女はいるんですか?」

 緊張の為、やや声が上擦った。

「何、突然?」

「あ、いや、その、あの…、今日、文化祭を一緒に回らないかって、男の子に誘われて、どうしようかと困って…」

 これも緊張の為なのか、何故か唐突に自分の話を持ち出した。

「へぇ、理奈ちゃんモテるね」

「いえ! そんなんじゃないです!」

 両手を突き出して、掌を裕弥に向けて頭と共にブンブンと振る。

 理奈の強い口調に少し驚く裕弥。

「あ、あの…、麻生さんならどうしますか?」

「えっ? 俺?」

 自分を指で差して、どうして自分にそんな事を訊くのかと、驚いた表情をする。それを見て、理奈は慌てて理由を付け足す。

「その…、気が進まなくて…、でも知らない人でもないし…、どうしたらいいのか…、その、アドバイスを……」

 遂、言ってしまった事に、言葉に困りながらも、裕弥の反応を気にする。

「ん…そうだな、気が進まないなら断る? 相手に気を持たせても悪いし」

 襟足を撫でながら、視線を外して一点を見つめて答えた。

「そ、そうですよね」

  裕弥の言葉に、自分を納得させるように頷いた。

「それは…彼女がいるから?」

 本題に戻る。

「あ、俺が? 彼女はいないよ」

 言って、軽く首を振る。


 やった!


 理奈の心の中で花火が打ち上がる。

 そんな理奈とは逆に裕弥の表情が曇った。


 訊いちゃいけなかったかな…?


 裕弥の顔を見て少し後悔する。

 元気なく俯いている理奈を見て、裕弥は自分がそうさせてしまった事に気づき、ゆっくりと話し出した。

「彼女はサークルの仲間だったんだ。1年程付き合ったんだけど、サークル内の他の奴を好きになったから別れようって言われて。…人の気持ちが変わってしまうのは仕方ない事だから」

「そのサークルは…?」

「辞めた。やっぱ、ちょっとね…。でも、もう大丈夫だから。そんな顔しなくていいよ」

 裕弥は沈んだ表情をしている理奈の頭に手を載せた。裕弥の優しさが嬉しくて、瞬間、赤面する理奈。


 あ…、やっぱり好きだな。この人。


 湧いてくる熱い感情に、理奈は自分の気持ちを再確認する。

「あたし断ります! 文化祭の件。こんな気持ちじゃ、相手にも失礼だし」

「そう」

 裕弥は穏やかな笑顔を見せる。だが、理奈の言葉の本当の意味は理解していない事に、この時はまだ気づかないでいた。