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 放課後、理奈たちが下駄箱置き場で靴を履き替えていると、部活へと向かう悠がジャージ姿で横を通る。

「あ、今から部活?」

「うん」

「頑張ってね」

「おう」

 休み時間の度に仮眠を取っていた悠は、もうすっかり機嫌が直ったようだ。

「じゃあね!」

 理奈が手を振ると、悠はひょいと片手を上げて応える。悠の後ろにいた圭三はぺこりと軽く会釈をして、二人の元を去って行った。

 悠の姿が見えなくなると、理奈は美都に向き直って、小声で悠の秘密を話し始める。

「美都、ハルの事なんだけどさ、信じられないかもしれないけど、アイツって結構モテるみたいなんだよね」

「うん、判るよ。体育祭で下級生、3人くらいに囲まれて、一緒に写真撮ってたから」

 
 えっ? そうだったのか…。それは初耳…。そんな事までしていたとは、あの野郎めっ!


「それだけじゃなくて、今年に入って後輩から2人、同級生に1人、3年から1人、計4人に告白されたんだって。去年は同級生から2人、上級生1人から告白されて、その中には、ほら、2組の中村富美世っ! 今もたまに遊んでる仲なんだってよ? もぅ、聞いてびっくりだよ!」

 結局、今朝のあの会話の後、理奈は我慢できなくて、悠に今迄の女の子関係を事細かく問い質したのだった。

「今頃そんな事言ってるなんて、理奈鈍いよ」

「えーっ!?」

 美都の言葉に驚く。

「美都は気づいてたの? ハルがモテるって不思議じゃないの?」

「うん。だって、キュートじゃん」

「………っ‼‼」
 

 キ…キュ、キュート? あのハルがキュート⁉


 思いも寄らぬ反応に、自分の耳を疑った。


 幼稚園の頃、豪雨で朝から雷が鳴り止まない日、怖いと泣きじゃくって、結局、幼稚園を休んでしまった、あの弱虫のハルがキュート?

 小学生の時、クラスの女の子とふざけて物を投げ合って、自分の手提げ袋でその女の子の頭を叩いたら、運悪くその袋の中に鋏が入ってて、相手の頭から血が流れて、三針縫う怪我をさせちゃって、おばさんと一緒にお詫びのマドレーヌを持って、そのコの家まで謝りに行った事のある、あのハルがキュート? 

 文化祭でお腹が空いたからって、ただでバナナとジュースが貰える献血に参加して、血を抜いたら貧血で倒れちゃって、暫く保健室で眠ってたという、格好の悪いハルの一体何処がキュートなの? あたしには全く理解不能だわっ!


 姉弟のように接してきた理奈には、悠を異性として見る事が出来なくて、女の子達が悠の何処を見て、好きになるのか判らなかった。


 しかも、その理由がキュートだなんて何か間違ってる。


「例えば何処が?」

 美都に質問してみる。

「?。…例えば顔? あの人懐っこい笑顔とか可愛いじゃない」

「っ‼」

 
 笑顔が人懐っこくて可愛い? そうか…、あの眠たそうな童顔は、他の人からしたらそういう風に見えるのか…。初めて知った。


「あと、サッカーしてる姿もポイント高いかな」


 あぁ、そうかっ! その手があったか! 爽やかさを売りにする。たしかにそれはポイント高いな。でも、みんな騙されている! あれはただコドモなだけで、だらしなくて、抜け目なくて、世渡り上手なズルイ奴で…。

 そう、思い出した! あれは小学生になったばかりの頃、ずっと欲しくて我慢していたリカちゃん人形を、7歳の誕生日プレゼントにやっと買って貰える事になって、ハルの家族と一緒にショッピングへ出かけたんだ。そこの玩具売り場で精算するぞって時、ハルが玩具の剣を気に入って手放さなくなって『リナはかってもらうのに、ズルイっ!』なんて、駄々を捏ね始めた。その場から動かなくなったハルを放って置く訳にもいかず、仕方なく買って貰える事になったのだ。

 あたしはちゃんとした誕生日プレゼントという名目があっての事なのに、ズルイのはどっちだ! っての。その後ハルは買って貰った剣で『たたかいだ!』とか言って、あたしのお尻をペシペシ叩いて廻ったんだ!

 みんな判ってないんだ! ハルは全然キュートなんかじゃない! 悔しいっ! みんな騙されてる! 気づけっ!


 昔の記憶と共にその時の感情も甦り、どうしようもない歯痒さを、どうにかして伝えられないかと、血が逆流する思いだった。

「もしかして美都もああいうのが好き?」

「ううん。あたしはジュリアン一筋♥」

 指を組み、お祈りのポーズで頬を染める美都。


 そうよね…。いくらなんでもね。


 悠の事をキュート等と言い出したので、美都も悠がタイプなのかと心配したが、疑いが晴れたので、ホッと胸を撫で下ろした。

 実は、嫌がっている悠にあれこれ訊いておきながら、とても知りたいのに訊けない事が一つだけあった。

 それは、その女の子達とどこまで仲が進展していったか。

 今迄自分と同類と思っていたので、そこの所が凄く気になる。だが弟の様に思っていた悠の、異性として生々しい部分を知ってしまうのは…なんというか……できれば知りたく無い部分でもあり…しかしとても気になる事でもあり……。触れたく無いけれど覗き見したいという…なんとも複雑な感情が理奈にあった。

 …その時の悠との会話を思い浮かべる。

「その人達とは彼氏彼女として、ちゃんと付き合ってるんだよね?」

「そうだよ」

「それって……」 

 続く言葉が言い辛い。

「?」

「…だから……」

 理奈は悠と視線を合わせず、体の前に両手で持っていた鞄を、右の膝でコツコツと当てて、何度も軽く浮かせる。

 出せない言葉に気持ちも詰まって、それが動作に出てしまう。

 理奈の様子が急におかしくなって、悠は会話の前後から、理奈の心情を読もうとした。

 少しして、何かに気づいた様に悠は口を開き、途端に耳は赤くなり、視線を理奈から外した。

 それを目にした理奈は、自分が何を訊きたいのか、それに悠が気づいたのだと察した。

 理奈は悠を凝視する。

 理奈が自分に視線を送っている事に、悠の耳は更に赤くなった。


 ! これは……。


 お互い何も言わなくても、相手の考えている事が判った。

 沢山並んでいる下駄箱を眺めながらも、理奈の頭の中にはその時の光景が浮かんでいた。


 あれは……チューはしてるな。 その先は……して……


 と考えて、目を瞑り頭を振った。


 ダメだ! ダメだ! ハルのそんなの考えたく無い! 中止! 中止!


 考えるのを止めるよう、脳に命令を出した。


 はぁ…。それにしても、何故ハルばかりがモテるのだろう? あたしだって、赤い糸とか言う前に、素敵な彼氏が欲しいなっ。


 面白くないと思っていると、何か気配を感じたので後ろを振り向いた。そこには、一人の見慣れた男子生徒の姿があった。

 それは同じ中学出身で、去年同じクラスだった、武田芳朗だった。身長165センチ、痩せ型、ツンツンした黒い短髪、三角の眉毛、銀の縁に楕円形の眼鏡。あまり話した事は無いが、無口で目立たないタイプだった印象がある。

「竹宮、ちょっと話したい事があるんだけど」

 静かな口調で言う。

「え? 何?」

「あ…ちょっと…」

 チラッと横目で美都を見た。美都もそれに気づいて気を利かす。

「あ、じゃあ、あたし、少し外してるね」

 ただならぬ空気を察して、ぎこちなく離れて行く美都。二人から少し離れた所に待機する。

 以前、感じた事のある重たい空気に、独特の重圧感が胸にのしかかる。

「あの…実はさ、前から竹宮の事が気になってて、それで今度の文化祭に先約が無ければ、一緒に回ってもらえないかと思って」

 彼は俯いたまま理奈の顔を見ずに話した。


 これはもしや告白されているのでは?

 
 理奈は答えに困った。二週間後に控えている文化祭。クラスの催し物は休憩所に決まり、何もしなくて済む事になっている。それに部活をしていない理奈には確かに予定は無かった。だが、ここで正直に答えてしまっていいのだろうかと悩んだ。予定は無いし、はっきり好きだと言われている訳でも無いのだが、ここで安易に受け入れてしまって、勝手に彼の気持ちが盛り上がって、後で取り返しのつかない事になったらと不安が過る。

「えっと…。少し考えさせて欲しい…かな」

 彼は少し耳を赤くして

「判った」

 と、満足した顔で帰って行った。きっと断られなかった事に、僅かな期待を抱いたのだろう。

「何? どうしたの?」

 美都が興味津々に近寄って来る。

「文化祭、一緒に回りたいって…」

「へぇー! 武田って、理奈の事好きだったんだ? じゃ、2年からずっと?」

 面白がって理奈を冷やかす。

「知らないよ。そんな事まで聞いてない。それに好きだとも言われて無いし」

「何言ってんの。そりゃ告白だって」


 あ…。やっぱり?


 美都の言葉を聞いて力が抜ける。

「で? 一緒に回るの?」

「まだ何とも言ってない」

「いいじゃん、一緒に回ってあげなよ。あたしだって劇部の舞台観に行くしさ、どうせ理奈独りで暇なんでしょ?」

 美都は演劇部のOGとして、舞台の準備を手伝いに行くので、事実その日をどうやって過ごそうかと考えあぐねていた。

「そんな事…。真弓たちと一緒に回ろうかと思ってたもん」

 同じクラスの帰宅部である友人の名を挙げる。

「でも、まだ約束したわけじゃないでしょ? 先約が無かったら武田でいいじゃん」

「そんな勝手に決めないでよ」

 彼氏が欲しいという気持ちに嘘は無いのだが、いざとなると怖気づいてしまう。


 こういうのじゃなくて、もっとこう…映画みたいな…、少女漫画みたいな…、ドキドキして、切なくて……。


 理奈の頭にある顔が思い浮かび、眼には切ない光が広がる。


 ……違う。
 好きだから付き合いたいんだ…。……好きでないから付き合えない。
 ………。


「理奈?」

「あ? うん。へへ…」

 美都に笑顔を向けて、気持ちを切り替えた。


 あぁ神様、さっきの彼氏欲しい宣言は撤回します! まだ自由な身でいさせて下さい。


 決してクリスチャンでは無いのだが、あくまで神頼みをする時の理奈の中にあるイメージとして、心の中で跪き十字を切った。

「あ! もしかしてこれが、赤い糸の相手だったりして…?」

「えっ‼?」