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 いつもは慌ただしく迎える朝も、今日は時間のゆとりがあって、清々しく感じられた。

「あ………」

 宿題に歴史のプリントが出されていたのを思い出す。今になるまですっかり忘れていた。勿論白紙のままのプリントが、そのまま教室の机の中に入っている。

「ま、いっか」

 そんな事には全く動じない性格だった。何故なら、歴史の授業が何時間目に行われるかしっかり把握していて、それまでに誰かに写させてもらえばいいと、瞬時に計算したから。こういう事は悠にとっては珍しく無い事だ。

「あれ? ハル?」

 後ろから声を掛けられ、振り向く。

「おぉ。お早う」

「どうしたの? 今日、早くない?」

 何時もは自分の後ろから悠が声を掛けてくるのに、今日は珍しく、理奈よりも前を歩いていた事に驚いている。

「なんかね」

「珍しい事もあるもんだね。もしかして雪なんか降ったりして」

「あ、それ、もう親に言われた」

「やっぱり?」

 理奈は小バカにする様に笑い、それにつられて悠も笑った。

 理奈にからかわれるのは何時もの事だ。それに慣れてしまっている悠は、多少の事では腹を立て無い。もしここで何か言い返したら、強硬な理奈の事だ、むきになって攻撃してくるだろう。つまらない事で喧嘩をして、結果、理奈のご機嫌取りをしなければならないのは目に見えている。だったら最初からそこを避けるのが利口だと考える主義だ。

「昨日ね、今まで好きになった人の事とか考えてみたんだ。どこかにヒントがあるかもしれないと思って」

「ん? …あぁ、赤い糸の事?」

 まだそんなSFの事を考えていたのか? と、少し呆れながらも、悠は黙って理奈の話を聞く。

「ほら、ハル言ってたじゃん。状況が変わったって事は、相手が現れたからじゃないかって。だから今までの事を思い出してたの。でもね、その人達が今どうしてるとか全然知らないし、思い当たる節が無いんだよね。本当に出会ってるのかな?」

「あぁ、理奈は男に縁が無いからな」

 悪気無く言ったその言葉が、理奈の神経を逆撫でた。

「何それ? 偉そうに! じゃあ、自分は縁があるわけ?」


 頭にきたっ! ハルだって、大してあたしと変わらないくせに、偉そうな口を訊くんじゃない!


「まぁ、少しはね」

「………っ!」

 悠の言葉に理奈は目を見開く。一瞬息が止まるようなショックを受けた。今迄、自分と同じレベルだと安心していたのに、いきなり出し抜かれたような気になって、驚きを隠せない。見開いた目と共に口が開いたままだ。

「何? 何時? 何時そんな事があったの?」

「んー、中学ん時」

「中学の時? どうしたの?」

 必死だ。初めて聞く話題に、嘘であって欲しいと願っていた。

「2年の時、バレンタインにチョコ貰って。その内の一人から告白されて、別に嫌じゃなかったし、顔見知りのコだったから、なんとなく付き合った」


 本当なの⁉
 ハルが2年といったら、その頃あたしは男子にからかわれて、町田と話さなくなった時じゃん! 本当は好きだったのに、仲がぎこちなくなっちゃって、バレンタインだって本当はチョコをあげたかったのに、もうきっと貰ってはくれないと諦めて、胸を傷めてた時じゃない! そんな時にぬけぬけと…っ! しかも“その内の一人”って! 他からもチョコを貰ったって事でしょ? なんという贅沢者っ! てか、自慢? 何気に自分はモテますアピール?


「そんな事全然言って無かったじゃん!」

 むきになって問い質す。

「だって、オレ部活してたし。付き合うって言っても、部活の無い休みの日に遊ぶくらいだったし。現に、理奈だって気づかないくらいだろ? そう大した仲じゃ無かったって事だよ」

「で? そのコとはまだ続いてんの?」

「いや。学校が違うし、もう会って無いよ」

「そう」

 現在は続いていないと聞いて、少し安堵する理奈だった。

「それにしてもハルがモテるとはね…、意外」

「モテる? …別に、モテては無いと思うけど」
 

 謙遜するところが憎らしいっ。


「今年は? どのくらいチョコ貰ったの?」

「え…、えっとぉ…8コくらい?」

「!」

 再びショックを受ける。念わず口が開く。

 
 幼馴染という誼で、バレンタインの存在を知った時から、ハルにチョコをあげてはいたけれど、それは一つも貰えなかったら可哀想だという情けからの行為だった。ハルも喜ぶわけでもなく、それは気遣っているあたしに悪いと感じ、恐縮しているからだと思っていたのに、それは単なるあたしの思い違いで、本当は貰い慣れているから感動が無いだけだったんだ。
 10年以上も一緒にいたのに、何も気づかなかったなんて、悔しいよっ!


 なんだか独り取り残された気分になって、寂しくも感じ、複雑な思いがあった。

「ハル…、もしかして高校に入ってからも、誰かに告白された?」

「あぁ…、まぁ、ね」

 悠は、なんだか話が嫌な展開になってきていると感じながらも、理奈に気遣う口調で答える。

「………」

 もう驚かない。悠が女の子達にとってどういう存在なのか、だんだん把握が出来てきた。


 そうなのか。


「その人とはどうしたの?」

「いや…、別に」

 気の無い返事をする。

「別に何?」

 そんな悠に、何を勿体つけているの、と言わんばかりの勢いで促す。

「何も無いよっ。たまに遊んだりした事もあるけど、部活やってるし、マメに付き合うことは出来ないからね。そういうの、告白された時にちゃんと言ってるし、向こうも判ってて声掛けてくるんだろ? 別に見境なく楽しんでるわけじゃないよ」

 少し腹立たしそうに言う。

 理奈は頭が痛くなりそうだ。

 話の内容が複数形な事に、一人の女の子からだけではない事が窺える。


 あぁ、知りたいっ! 一体今迄、何人の女の子から告白されて、何人と付き合ったのか。


 だが、すんなりと答えないところに、質問にあまり答えたくないという意思が見受けられる。それを判っていながらしつこく問い質すのも気が進まない。どうにかして事実を知ることは出来ないだろうかと理奈は考える。



            ❋   ✴   ✷



 二人が通過した道から70メートル離れた所に公園がある。そのフェンスに凭れて様子を窺っていた人物がいた。

 全身が黒い衣装に首からゴーグルを掛けている。朝の陽射しに眩しそうに目を細め、サラサラと風に揺れる癖の無い髪。一瞬、何処かの雑誌の撮影でもしているのではないかと、見惚れてしまう程美しい情景だった。

 実は理奈に渡した指輪は、盗聴器付きの発信機になっており、遠く離れていても鮮明に会話は聴こえる為、今の会話も全て伝わっていた。

 会話から、理奈の状況を詮索する。恐らく自分が訪ねた時と何も変化はしていないと判断。無事仕事が進行して行くのか不安に思えたが、約束の期日が来るまでは黙視するしかなかった。


 厄介な人物の担当になったな。


 a2には、この先何か面倒な事が起こりそうだと、嫌な予感がしていた。