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 ダイニングにトーストの焼ける良い香りが漂う。

 重い足取りで階段を下りてくる。

「あら、お早う」

「…はよ」

「めずらしい。お兄ちゃんが一人で起きてきた」

 食卓で紅茶を飲んでいた由貴がからかう口調で言った。

「本当ね。雪でも降らなきゃいいけど」

 夫のお弁当のおかずを詰めていた母の育代も、娘の言葉に賛同する。

「…うっさい。ほっとけ!」

 不機嫌に言って洗面所へと向かう。悠は低血圧なのだ。

「はい、はい。よく顔を洗って、目を覚ましておいで」

 育代が笑って、息子の不機嫌を宥めた。

「悠は今日、朝練か何かか?」

 既に食事を終えて、新聞を広げていた父の慧が妻に訊ねる。

「そんな事は言って無かったけどね」

「やっぱり雪が降ったりして」

 すかさず由貴が口を挟む。

 少しして、洗面所から戻って来た悠が、父親の向かいの席に座った。まだ頭がフル活動されてないらしい。朝食を目の前にして、ただ茫然と座っているだけだ。

「ほらぁ、しっかりしなさいよ。せっかく早起きしたって、そこでボーッとしてたら遅れちゃうんだからね!」

 育代が温かい紅茶を悠の前に置き、抜け殻の様にしている息子に活を入れる。

「…あぁ」

 力無く応えると、紅茶の入ったマグカップを両手で包み、先程洗顔の為、冷たくした手をそれで温める。

「悠、今日、朝練ってわけじゃないんでしょ?」

 次にコーンポタージュスープを持って来て、先程夫に言われた言葉を投げかけた。

「うん、違うよ」

「そうよね。だったら早くなくて、遅刻だものね」

 黙って会話を聞いていた慧は、広げた新聞の向こう側で悠の顔を盗み見るが、何を言うわけでも無く、雑に新聞を畳むと、出勤の準備へと取り掛かる為、席を立った。 


             ❋   ✴   ✷



 食事を済ませた悠は制服に着替え、髪にワックスをつけていた。鏡でしっかりチェックをすると、手についたワックスをティッシュで拭き取る。鞄を持って下へ降りて行き、ベトついた手を洗う。そういう所は気にする質だった。

 テーブルに置いてあるお弁当をバッグに入れると、 

「いってきまーす!」

 大声で言って玄関へと向かう。

「はい。行ってらっしゃーい!」

 夫と娘を送り出し、自分の食事も済ませて、今は洗濯へと取り掛かっていた育代は、息子の耳に届くよう、負けじと大声を上げた。