、対照的に外側においては出来る限り高揚する衝動を制しようと必死であり、内外の拮抗が危うい状態へと発展してその結果、初心に帰るかの如き落ち着きを見事に取り戻し、最終段階として縁の偉大さをただただ実感するばかりであるということだ。要せていない。
そんな私の要約力と国語力で縁についての描写、ひいては表現の自由を行使していいものか真剣に思い悩むのは僅かコンマ一秒の世界であり、縁を(高く)評することが許されるのは私しか存在しないとほぼ瞬間的に自信を再生した私は、内発的であると同時に外発的な面も兼備しているので、道中で十数年慣れ親しんだ近所の風景には目もくれずに、外的刺激の全てを縁に設定し、後はせいぜい近辺の交通量にのみ注意を払っていた。
縁と私は背格好について学年分の差異があるが、歩く速さはそれに比例せず同等のスピードとなっている。私は普段の通学中や外出中、基本的に縁ただ一人に集中していて、私自身には不自覚な部分が多いのだけれど、偶には日々に刺激を与えようという目的を胸に、私を含めた二人の姉妹として視界を意識化してみると、何かしら認識できることがある。今は歩行に関して意識していた。私達の体格の違いは歩幅の長短を生むことを必然とするが、縁はそのロスを素早さという技術を用いて補っているのだ。私が縁を眺めて悠々と歩いている間に、縁はせかせかと小規模な競歩を促されていると思ったら、同じ道を踏みしめる姉として申し訳ない気持ちになってしまう。
そこで唐突にも「料理は愛情」と「縁への愛情」という二つの合言葉を贅沢にもこじつけることにより、縁への愛情をある種の料理だと比喩すると、今私は、前もって用意していた自責の念をここぞとばかりに隠し味に加え、鋭意製作中な前菜の調理をゆっくりと遅延させた。この口述から一般的に読み取れることは、私は比喩の技法を使いこなすにはあまりに表現力が歪んでいて、言語感覚が並外れているということだが、並大抵に収まりたくはないので丁度いいと思う。そう、丁度いいのだ。今、私は縁が丁度いい塩梅で歩き進められるように歩く速度を低下させたのだ。
小学校の算数で歩幅と素早さの計算をした時の記憶を特別に頼りにする訳でもなく、自分に備わっている天性のバランス感覚で縁の本来の速度に合わせようと試みる。学校の机の上で学習した知識は実生活には何の役に立たないことと、実を言えば私に秀でた平衡感覚など無いことを改めて思い知って、私の人生に必要なものは数字では計れないなと学校教育への憤然たるストライキを秘密裏に企画し、頭の中で決行し、それとは無関係に引き続きペースダウンに挑み、結果として縁に「もう少し早く歩いていいいよ」と言われた。
何だかんだ縁にも私の速度が定着していて、今更変化を投じるとかえって収まりが悪いらしい。私も自然に振る舞えるのならそれが最良だと思うから、縁が現状維持を望むことに感謝の意を浮かべて、減速から加速へと転換し、原則に戻る。すると縁は、稀によくある早すぎて逆に遅く視える現象を彷彿とさせる遅緩《ちかん》な足さばきで着実に一歩一歩地面を蹴る様《さま》から、廊下の走行の禁止に異様な執着を持つ小学校教師を恐れた結果廊下の移動を早歩きに切り替えた小学生時代の縁のような機敏さを再出現させた。いや縁にそんな過去は無いから全く以て捏造だけど。
ともかく縁は再び競歩のスピード感を得た。てくてく、な擬音を奏でる縁が可愛いのは個人的に有名だけど、せかせか、と早い音律を弾き鳴らす縁も絶対的に聡明で愛らしいと思った。縁が歩けば私が可愛がる。そこにそれ以上の因果関係は無い。
以上のように視点を絞れば、私達の当たり前の仕草や新たな事実を意識的に発見でき、縁への理解が更なる次元へと歩みを進めるのだ。
私と縁は家での暮らし、学校での生活、その他のあらゆる行動を、出来る限り共にするようにしてきた。私の進学、縁の進学、家庭の変化、他人の変化といった社会の波に晒されても、二人で堅い殻に閉じこもって耐え抜こうと一生懸命だった。その証拠が、長年かけて形作られたこの私と縁の歩き方だ。何をするにもずっと一緒だったから、二人の慣れ親しんだ行動様式というものがある。誰も口を挟むことができない空気感がある。
そんな私の要約力と国語力で縁についての描写、ひいては表現の自由を行使していいものか真剣に思い悩むのは僅かコンマ一秒の世界であり、縁を(高く)評することが許されるのは私しか存在しないとほぼ瞬間的に自信を再生した私は、内発的であると同時に外発的な面も兼備しているので、道中で十数年慣れ親しんだ近所の風景には目もくれずに、外的刺激の全てを縁に設定し、後はせいぜい近辺の交通量にのみ注意を払っていた。
縁と私は背格好について学年分の差異があるが、歩く速さはそれに比例せず同等のスピードとなっている。私は普段の通学中や外出中、基本的に縁ただ一人に集中していて、私自身には不自覚な部分が多いのだけれど、偶には日々に刺激を与えようという目的を胸に、私を含めた二人の姉妹として視界を意識化してみると、何かしら認識できることがある。今は歩行に関して意識していた。私達の体格の違いは歩幅の長短を生むことを必然とするが、縁はそのロスを素早さという技術を用いて補っているのだ。私が縁を眺めて悠々と歩いている間に、縁はせかせかと小規模な競歩を促されていると思ったら、同じ道を踏みしめる姉として申し訳ない気持ちになってしまう。
そこで唐突にも「料理は愛情」と「縁への愛情」という二つの合言葉を贅沢にもこじつけることにより、縁への愛情をある種の料理だと比喩すると、今私は、前もって用意していた自責の念をここぞとばかりに隠し味に加え、鋭意製作中な前菜の調理をゆっくりと遅延させた。この口述から一般的に読み取れることは、私は比喩の技法を使いこなすにはあまりに表現力が歪んでいて、言語感覚が並外れているということだが、並大抵に収まりたくはないので丁度いいと思う。そう、丁度いいのだ。今、私は縁が丁度いい塩梅で歩き進められるように歩く速度を低下させたのだ。
小学校の算数で歩幅と素早さの計算をした時の記憶を特別に頼りにする訳でもなく、自分に備わっている天性のバランス感覚で縁の本来の速度に合わせようと試みる。学校の机の上で学習した知識は実生活には何の役に立たないことと、実を言えば私に秀でた平衡感覚など無いことを改めて思い知って、私の人生に必要なものは数字では計れないなと学校教育への憤然たるストライキを秘密裏に企画し、頭の中で決行し、それとは無関係に引き続きペースダウンに挑み、結果として縁に「もう少し早く歩いていいいよ」と言われた。
何だかんだ縁にも私の速度が定着していて、今更変化を投じるとかえって収まりが悪いらしい。私も自然に振る舞えるのならそれが最良だと思うから、縁が現状維持を望むことに感謝の意を浮かべて、減速から加速へと転換し、原則に戻る。すると縁は、稀によくある早すぎて逆に遅く視える現象を彷彿とさせる遅緩《ちかん》な足さばきで着実に一歩一歩地面を蹴る様《さま》から、廊下の走行の禁止に異様な執着を持つ小学校教師を恐れた結果廊下の移動を早歩きに切り替えた小学生時代の縁のような機敏さを再出現させた。いや縁にそんな過去は無いから全く以て捏造だけど。
ともかく縁は再び競歩のスピード感を得た。てくてく、な擬音を奏でる縁が可愛いのは個人的に有名だけど、せかせか、と早い音律を弾き鳴らす縁も絶対的に聡明で愛らしいと思った。縁が歩けば私が可愛がる。そこにそれ以上の因果関係は無い。
以上のように視点を絞れば、私達の当たり前の仕草や新たな事実を意識的に発見でき、縁への理解が更なる次元へと歩みを進めるのだ。
私と縁は家での暮らし、学校での生活、その他のあらゆる行動を、出来る限り共にするようにしてきた。私の進学、縁の進学、家庭の変化、他人の変化といった社会の波に晒されても、二人で堅い殻に閉じこもって耐え抜こうと一生懸命だった。その証拠が、長年かけて形作られたこの私と縁の歩き方だ。何をするにもずっと一緒だったから、二人の慣れ親しんだ行動様式というものがある。誰も口を挟むことができない空気感がある。

