健一先輩の腕が伸びてくる。その大きな手がわたしの頬に触れた。走って来たせいで火照った顔に、冷たい手が気持ち良い。
「なのに残念。泣いてないね」
「え?」
「ライブで感動してしょっちゅう泣いちゃうカコちゃんが、まさかおれらの卒業式で泣いてくれないなんてなあ」
その言い方で、誰が健一先輩の第二ボタンを予約したのか分かった。それは……。
「わたし、ですか?」
「うん、そう、“わたし”」
第二ボタンがもらえる。健一先輩はわたしにくれるために、ボタンを取っておいてくれた。そう理解したら緊張の糸がぷっつり切れて、途端にどばっと涙が溢れた。
健一先輩は「泣かないでー」と言ってわたしを抱き寄せ、宥めるように背中をぽんぽん叩く。
「まあ、泣き顔もそそられるけどねえ」
「さっき梅原先輩に、産卵前のウミガメって言われましたけど……」
「あははー、梅原のやつ、後でしめてやる」
その状態のまま、しばらく春の風に打たれ、ようやく身体を離すと、健一先輩は思い出したように第二ボタンに手をやる。
そして格好良くボタンを……ボタンを……。
「あ、あれ?」
余程頑丈に縫い付けてあるのか、ボタンが外れない。
「ちょ、ちょっと待ってね」
前かがみになり、両手を使って、苦戦しながらようやく外したボタンを、コロンとわたしの手の平に転がす。
それをそっと撫でたあとで、大事に大事に握り締めた。
健一先輩の第二ボタン。きっとみんな欲しかったであろう第二ボタン。それが今、わたしの手の中にある。
でもこれを貰うことができるのは、先輩にはもう必要がないものだからだ。明日からこの学校に、先輩はいない。
ボタンを貰えて嬉しい。でも、明日からは簡単に会えなくなってしまうのが寂しい。もう廊下でばったり会って他愛ない雑談をすることも、軽音部の部室を訪ねることも、教室の窓から「おーいカコちゃーん」と声をかけられることもない。そんな日々がやってくる。
そんなわたしの複雑な気持ちを察したのか、健一先輩はこんなことを言った。
「週末どこかに遊びに行こう。来週も、再来週も。花見も行こう。もうすぐ桜の季節だよ」
そうして健一先輩は、胸の花飾りを取ってわたしの髪に付けながら、たれ目をいつもよりずっと下げて、えへへと笑ったのだった。
(了)