そろそろ恋する準備を(短編集)




「も、もう、いい、ですか?」

 ぜえはあと息を切らしながら言うと、しののめくんは「あ?」という返事と共にわたしを見下ろす。
 かと思えばまたあのニヒルな笑みを浮かべ「飯やトイレも手伝うんじゃなかったのか?」なんて言った。


「いや、あの、それは、学校での話で……」

 なかなか息が整わない。ここでこと切れても何ら不思議ではないくらいの疲労だった。

「おうちでは、おうちの方に、げほっ、手伝ってもらったほうが……」

「……」

「たしか、お父さんがお医者さんで、お母さんが看護師さんですよね? 怪我を負わせておいてなんですが、わたしなんかよりずっと、手当ても介助もできるかと……」

 言うとしののめくんはニヒルな笑みを消し、不機嫌そうな顔でわたしを見下ろすと、何も言わずに踵を返す。
 そして足を引き摺りながら、立派なマンションの中に入って行ってしまった。


 わたしは地面に座り込んだまま、今のやり取りを振り返る。
 何かまずいことを言ってしまったのかもしれない。いや、でも間違ったことは言っていないはずだ。

 だってそうじゃないか。彼女でもない、親しくもないわたしが、ご両親の前で甲斐甲斐しく世話を焼く姿なんて、なんか色々気まずい。どんな顔をして食事の支度をすれば良いのだ。トイレやお風呂なんてもってのほか。
 親の前で女の子に色々世話をされているところなんて、しののめくんだって見られたくないはずだ。


「しののめくん!」

 後ろ姿に声をかけたけれど、華麗に無視された。

「また明日、学校でね!」

 またもや無視されて、しののめくんはマンションの奥に消えた。


 よく分からないひとだ。
 彼はわたしをうちに入れる気だったのか。ご両親と対面させるつもりだったのか。例え今は不在だったとしても、そのうち絶対帰って来る。そのとき見知らぬ女子高生がいたら、ご両親だってびっくりするはずだ。

 同じクラスだとしても、わたしが知る彼の情報は名前と、成績優秀だということと、お医者さんの息子ということだけ。
 今日、そんな彼の情報に「よく分からん」が加わった。