いた…。何故だ。
 しかも先ほどから意味のない行動を繰り返している。

 声をかけるのを躊躇したが、それでも声をかけなければならないだろう。

 ここには僕らしかいない。
 昨日のことを話すには絶好の機会だ。

「おい。いつまで残業するつもりだ。」

 突然の声に驚いた様子の奥村を視界に捉える。

「南田…さん…。」

 そうか…。僕の名前を知っているのか。

 若干、喜ばしい思いになり、そのまま思っていたことを口にする。

「さきほどから同じ動作しかしていない。
 仕事ははかどっていないようだが?」

 奥村は手元にある資料を束ねては広げ…をここ10分くらいは続けていた。


「君は…。」

 南田は奥村のことをなんと呼べばいいのか、奥村さんなどと呼んだら顔が赤くなりそうだった。

 それでも「君」という呼び方では失礼があったようだ。
 不満げな声が南田に届く。

「奥村華って名前があります。」

 う…。しかし呼べるものか。

 南田は思いつきでどうにか誤魔化してしまいたかった。
 自分でもよくこうも屁理屈を並べられたものだと感心する言葉が口から出る。

「そんなもの不必要この上ない。
 僕たちは契約関係だ。
 甲と乙でいいほどなのに、譲歩して君と呼んでいる。」

「こうと…おつ?」

 戸惑っている奥村が可愛く思えて、少し意地悪を言いたくなる。

「そんなことも知らないのか。
 契約書に書いてあるだろう。甲、乙と。」

 しばらく考えた後、理解したように奥村が口を開いた。

「人を呼ぶ時に使うものじゃないです。」

「だから譲歩してやって君だ。」

 はぁ。どうにか誤魔化せたか…。

 南田はつい、ため息が出てしまう。
 すると奥村がハッとした顔で言葉を発した。

「契約って!してません!」

「キス税を払いたくないんだろう?」

「そりゃ払いたくはないですけど。
 南田さんと…する必要はありません。」

 はぁ…それはそうか。
 キス待ちなどしていなかったのだ。
 やはり失態だった。

 しかしどうしたものか…。

 南田は奥村の手にしている資料が目に入り、興味からそれを手に取った。