旅行の予定を決めるため、僕の部屋にやって来た彼女にそんな話をしたら、彼女はへらっと笑って「不器用だよねえ」と言った。

「たぶん周りのみんなは、仕事もプライベートもちゃんと折り合いつけて、楽しくやってるんだろうけどねえ」

「うん。会社の先輩の話とか聞いてると、ほんとそう思う。仕事もきっちりこなして、でも恋人や奥さんとの時間も大切にしてて。休日にはしっかり家族サービスもしてるみたいだし」

「まあ、わたしたちは昔から不器用だったし」

「そうだね。馬と鹿だしね」

「ふふ、馬と鹿だもんね」


 馬と鹿。それは学生時代の話だ。

 若くて青くて、周りが全く見えていない、表面的な恋愛をしていた僕の机に、誰かが「馬」と落書きをした。当時付き合っていた子の本性に気付かず顔だけを見て選んだ僕に、それを伝えるためのメッセージ――馬鹿の「馬」だと解釈して、それがその子と別れるきっかけになった。

 それを書いたのが彼女だったと気付いても、なかなか話しかけるタイミングが見つからず、結局卒業の時を迎えてしまった。僕は話しかけることをすっかり諦めて、でもメッセージをくれた彼女にどうしても感謝の気持ちを伝えたかった。悩んだ挙げ句「鹿」と書いた紙を彼女のげた箱に入れた。
「あんな分かりにくいメッセージを書いたきみは馬鹿だ」という意味を込めていたが、彼女がちゃんと気付いてくれたか。

 答え合わせができたのは、それから八年後のことだった。と同時に、彼女が書いた「馬」の字には「わたしを選ばないなんて馬鹿だ」という意味だったと知ることにもなった。


 お互い胸に芽生えていた淡い恋心も、送り合ったメッセージの意味も、何ひとつ伝えることができない。そんな不器用極まりない僕らだ。

 どちらかが無茶をしないと、上手くいかないかもしれない。


「だから小林くん、レシピ本なんて読み始めたの?」

「あ……まあ、正解……。よく見つけたね……」

「いや見つけるよ。カラフルな表紙がちょっと見えてるし。隠したいならもっと別の雑誌に紛れ込ませなきゃ。エロ本とかないの?」

「ないよ……。ていうか笹井さんの口からエロ本とか聞きたくないんだけど……」

「小林くん、会えない時間が長すぎて、わたしを美化してない?」

「してないよ……たぶん……」

 してない、とは思うけれど、彼女のために料理を覚えようとしているのは事実だ。
 今まで料理と呼べるものは、とにかく肉やら野菜やらをフライパンにぶち込んだ肉野菜炒めしかできなかった。

 あまり美味くもできないから八割が買い食いか外食だったけれど、彼女はあまり外食をしない派で、色々な料理を作ってくれる。だけどそれじゃあ彼女の負担が大きすぎる。なら僕が料理を作ればいい、という安直な考えだった。
 まあ、どんなに頑張っても、彼女が作る手料理には叶わないんだろうなとは思うけれど……。