「杏鈴ちゃんがなにを見てそう思ったのかは知らないけど。俺、結婚したことないよ。ずっと独身」

「は、はい……?」

「もしかしてそれが原因でたまに不安な顔してた?」


彼は困ったように眉を下げると、運転席から手を伸ばし、わたしの目から流れ落ちる涙の粒を小指で拾い上げていく。


「ごめん、自分のことを隠したいとか、なにも喋りたくないとか、そういうふうに思って、わざとそうしてるわけじゃないんだ」

「じゃあ……なんにも言わないのはなんでですか」

「うーん。ものすごく端的に言えば、そういう性格なだけかも」

「……なにそれ、ぜんっぜん納得できない……」


やっぱりおちょくられているのかもしれない。


ごめん、と彼はもういちど、今度はぜんぜん思ってなさそうに少し笑いながら言った。


シートベルトがカチャリと音を立てて外れる。

助手席じゃなく、運転席側のそれがしゅるしゅると向こう側へ消えていくのを、なんとなく目で追いかける。


だから、優しい漆黒の瞳に顔を覗きこまれていることに気づかなくて。


2秒後、至近距離で目が合って、本当に心臓が止まってしまうかと思った。