「あれっ、楓子早いね。今日」


教室の後ろのドアから入ってきた麻衣が、先に教室に着いていた私にそう言った。


登校で靴下が濡れたのか、裸足でスリッパを履いている。


「うん、そうなの。今日雨降ってたから電車止まるかなって思って、いつもより早いやつに乗ったんだ」


「おー、えらーい」


机にスクールバッグを置きながら、麻衣は笑った。


でしょでしょ?偉いでしょ〜。


と、普段の私なら言っていただろう。だけど、ただでさえ寝不足で心が重たい私には「うん」と返すので精一杯だった。


体を麻衣から前に戻す。眠たい、けれど目を閉じると思い出してしまう。そんな狭間で揺れ動いていた時、一人の男子の声が教室に響いた。


「おう山崎!おはよー!」


彼の名前はどんな騒音の中でもはっきり聞こえる。いつもならチラ見して、少し心が躍る瞬間。だけど、今日の私には心臓を冷たい手で鷲掴みされたような瞬間だった。


「おう、おはよ」


彼はいつもと変わらない様子で教室に入って来る。変わらない笑顔、素振り、態度。


ねぇ、どうして?どうして昨日、あの子と一緒に帰っていたの?もし私の嫌な予感が当たっているとしたら、どうしてあなたはそんなに普段通りなの?ねぇ…どうして。


彼を見ると、疑問が溢れ出てきた。昨日までは山崎くんを見ると、自分の気持ちを伝えたくなって熱くなって、愛しくて、心がふわふわして、すごく幸せだった。だけど今は、ただ…苦しい。あなたを見ただけで、泣きたくなる。


「こんなに苦しいなら、好きになんて…ならなきゃ良かった」


俯いて、目を覆いながら嘆いた。人が集まりだし皆が騒ぐ教室に、その嘆きが誰かに届くことは無かった。