町内くまなくお弁当を配り、12時半に残りの二つを最後の配達先に届ける。

『家具工房 inno(イノ)』

インターフォンも何もない工房の扉を勝手に開く。木の香りが充満していた作業場に外の空気がすうっと入っていく。
その僅かな変化を敏感に察知したのか、奥で作業していた哲生が顔を上げた。

「いらっしゃい」

朝出かけていく時に着ていたチェックのシャツにジーンズ、それに作業用のエプロンを着けた彼は、もうそんな時間かと作業の手を休めた。
作業に没頭すると時間を忘れるのはいつものことだ。だから、毎日配達の帰りにお弁当を届けることにしている。

「和(かず)さんは?」
「事務所だよ。有喜(ゆき)さんと帳簿の整理してる」

和さんというのは、ここの工房のオーナーであり、哲生の師匠。そして、有喜さんは和さんの奥さんだ。
工房の名前である『inno』というのは、和さんの名字の猪野(いの)と、フランス語で無垢を意味するinnocentから名付けられたという。
名前の由来通り、ここは和さんが始めた無垢材の家具を作る工房だ。

古くよりこの町を支える主要産業は林業だったため、近隣の山々はスギやヒノキなどの人工林が多い。しかし、県内でも特に山深いこの町では家具に適したブナやナラなどの天然林も残っている。
三十年前、その立地に惚れ込んでここに工房を構えた和さんは、林業の仕事を手伝いながらオーダーメイドで理想の家具を作り続けてきた。その努力が実って、十年ほど前から和さんの家具は注目を集めるようになってきた。

天然オイルで仕上げる無垢材の家具は傷付きやすいが、その分味がある。今まで通りのオーダーメイドの注文のほかにも、都会のお洒落なインテリアショップから注文が舞い込むことになった。

とても和さん一人では対応できないと思っていたところへ、ちょうど弟子入り志願の若者がやってきた。