━━山崎の戦いで明智玲香を破った羽柴麻衣は、山城地区の他に、毛利まあやとの和睦で手に入れた、備中・美作・伯耆の三地区に加え、玲香の領土の丹波地区も手に入れ、跡継ぎのいない織田家の家臣の中で、最大勢力になっていた。

その後も、佑美亡き後の後継者争いに巻き込まれた麻衣は、そこでも相手を破り続けて、大阪府河内(かわち)地区や、姫路(ひめじ)女学園のある兵庫県播磨(はりま)地区なども麻衣の領土になった。

そして、佑美が攻め落とすのに一番苦労した、石山女学院を大改修して、《大坂(おおさか)女学園》と改名した。

━━大阪府は『阪』だが、学校の方は『坂』にした。

━━後継者争いの中では、徳川七瀬とも対立する事になり戦になった。

麻衣と七瀬は、争うつもりではなかったのだが、佑美の後継者争いに、巻き込まれる形で戦に発展した。

この争いは戦場になった地名から、《小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)》と呼ばれた。

小牧・長久手の戦いに参戦した女生徒の総数は、
徳川七瀬軍、約三万人。
羽柴麻衣軍、約十万人。
という、大規模な戦になった。

最終的に、七瀬が京都にいる麻衣に会いに行く事により、和睦が成立した。
ただ、この小牧・長久手の戦いで、七瀬は麻衣から一目置かれる存在になった。

━━その頃、麻衣は朝廷の眞衣から、《従三位(じゅさんみ)》の官位を与えられた。

これは官位の順位で、上から数えて六番目の非常に高い官位で、“三位”と書いて“さんみ”と読む。

これを麻衣の学校がブログで発表した事により、全国の学校が“羽柴麻衣”に注目し始めた。

麻衣は自分でも気付かないうちに、《大大名》になっていた。

石山戦争で、織田佑美を苦しめた“雑賀衆”は、和歌山県紀伊(きい)地区を制圧して麻衣に抵抗したが、最終的には麻衣に敗れて滅亡した。

更に麻衣は、朝廷の眞衣より、《正二位(しょうにい)》の官位と《内大臣(ないだいじん)》の令外官(りょうげのかん)に任命された。

━━令外官とは、大宝律令(たいほうりつりょう)が出来た頃からある役職で、この時代の女子高生達にも、それと同様の役職が存在する。

これは佑美がいない今、ナンバー1女子高生は、羽柴麻衣である事を意味していた。

麻衣は結果的に大名になったので、自分の車を持つ事にした。

軍の色は、織田佑美時代からの黒にしていたので、戦に使う車は、BMW・750Li・Mスポーツの黒にした。
それ以外の移動用には、ベントレー・フライングスパー6.0・W12のゴールドにした。
麻衣は、まだ二年生なので自分で運転が出来ない為、この二台にした。

二台共、後部座席がゆったりとしていて、快適である。

━━その頃、もう一人の有能な家臣が増えた。

福井県越前(えちぜん)地区敦賀(つるが)女学院一年、大谷沙友理(おおたに・さゆり)である。
茶髪のセミロングが良く似合う美少女で、食べる事が大好きな“食いしん坊キャラ”でもある。

━━麻衣が山城地区を中心に大大名になった頃、全国各地で、それぞれの大名が勢力を拡大していた。

徳川七瀬は、三河・駿河に加えて、甲斐も支配下に置いていた。

北条飛鳥は、相模・武蔵を中心に、関東で勢力を拡大していた。

そして東北地方に、有能な大名が誕生していた。
宮城県陸奥(むつ)地区仙台(せんだい)女学園一年、伊達蘭世(だて・らんぜ)である。
蘭世は、黒髪のストレートが似合う美少女で、文武ともに桁違いで優れていて、入学して間もなく、仙台女学園の小名になり、勢力を拡大し、陸奥地区の大名になった。
そして、蘭世は飛鳥と同盟を結んでいる。

━━九州地方にも有能な大名が誕生していた。
鹿児島県薩摩(さつま)地区内(うち)女子高等学校一年、島津怜奈(しまづ・れな)である。
怜奈は、肩までの茶髪のセミロングが似合う美少女で、こちらも文武に優れている。
そして、家臣を大切にするので、全校生徒から慕われている。
家臣の女子高生達に対する気遣いは、全大名の中でもトップクラスである。

越後地区の上杉史緒里は、姉の一実に似て欲がない真っ直ぐな性格なので、勢力こそは拡大してはいないものの、直江かりん達から慕われている。

━━新たな時代の幕開けの予感である。