火事場の馬鹿力とでもいうのか、激しい運動でとうに肺に限界がきてるはずだが足が前に出る。ほっといても俺の足は勝手に走ってくれるのではなかろうか、そんな気さえする。そんな気さえするが肺は崩壊寸前だ。
かけっこが始まって1分は経つだろうか、ここにきて前方からも一匹の白い犬が走ってくるのが見えた。
半ば食い殺される未来を覚悟しながら、目前に迫る木の幹に右腕を横向きに叩きつけ勢いそのままに右折する。最後の悪あがきだ。しかし黒犬が一枚上手だった。木を利用して右に転換した夏希の斜め右方向からその一匹が飛びかかる。
おそらく背後の黒犬達は一つの獲物を追うのに最適な陣形を取っていたのだろう、長年ここで狩りを行ってきたであろうその経験値に完敗した。

「っ……!」

その状況に声も出なかった夏希だが、反射神経で振り上げられた左脚がそのまま犬にヒットする。
だがスネが顎へ、つま先が腹へと流れるような蹴りに終わったため、犬の体はゆっくりと斜めに半回転を描く。まるで二段蹴りしたときの飛ばないサッカーボールのように軽く宙に舞い背中から落下した。
しかし夏希も軸足がままならないバランスの悪い状態で足を蹴り上げたため、崩れた体勢により右手が木から離れ、背中から倒れ込む。逃走劇は終了した。
……かに思えたがたった一匹の白い犬による思わぬ救出劇が開幕した。
遠目に見た時には分からなかったが、間近で見るその犬は自分の身長とほぼ変わらないほどの大きさだった。
吠えるその巨大犬に怯えたのか、ものの5秒で黒い集団は逃げ去った。
背を向け猛スピードで離れていくその黒尻たちに殺意を発信するかのように鬼の形相を向け続ける白い犬は、大の字で天を仰ぎ呆然とする夏希には神々しささえ感じる勇ましさである。

「大丈夫か君!」

スキンヘッドのガタイのいい男性が一人、この犬が来た方向から駆け寄る。飼い主だろうか。
それにしてもどこか戦にでも行きそうな

「あぁ、あの…ありがとうございます」

「こんな所で何してるんだ?もう日も暮れるってのに」

男は夏希をそっと起こし、大きな手で土をはたき落とす。夏希の頭なんて軽く鷲掴みに出来そうなほどだ。

「家に帰ろうとしてたんですけど、ちょっと迷って」

「迷った?この森で?」

「はい…この森で」

“この森で”がどういう意味かは分からなかったが、どことなく苛立ちを覚える言われ方だ。

「名前は?」

「刀八米夏希です」

「トーヤマナツキ…じゃあナツキだな、俺はパーグ・エクロフだ、パーグと呼んでくれ」

「は、はぁ」

「キャゥゥ〜ン」

あの勇ましさが幻だと錯覚してしまうほどの可愛らしい声をあげ、まるで歓迎するかのように夏希の顔を覆つてしまいそうなほど大きな舌がベロンベロンと心地よく頬を撫でる。