この信尹、書では三筆とうたわれるほどの腕前で、和歌も勅撰に入るほどである。

しかも。

何より信尹は秀吉の苦手な徳川家康と懇意であり、もともと松平家であった家康が徳川に姓を鞍替え出来たのも、近衛家の力あってのことであった。

その娘が美人となると。

「なるほど一目見てはみたいが、相手が左大臣の娘とあってはなぁ」

となるのも無理はない。

が。

ここで諦めないのが秀吉という男で、

「ならば聚楽第を見せてやろう」

といったような内容の文を右筆に書かせ、それを近衛邸まで持たせた。

いきなり関係を持とうとはせず、まずは、

「聚楽第の見物でもどうか」

と誘ったのである。