【完】『女房狩騒動記』


以下、後日談である。

信尹の醜女の姫はそののち、その言い交わした男との祝言を無事に挙げることができた。

が。

信尹の娘は母親がいわゆる遊女の出であったため近衛家の婿取りとすることは許されなかったのである。

そこで。

「朕の子を近衛の世嗣ぎとせよ」

との勅命により後陽成帝の第四皇子を養子として迎えた。

この養子は長じてのち信尋という諱を得て、近衛家を嗣いでいる。

ここで藤原鎌足以来連綿と続いてきた近衛家の直系は絶えた。

つまり。

信尹は直系を絶やした当主として、名を残すに至ったのである。

そのいっぽうで。

信尹は書において新しい境地を開き、いくつもの書を遺している。

娘についてはこののち近衛家の族譜からは、

「某女」

とのみ記され、消息は分からない。

一説では所領がある薩摩で暮らしたとされるが、今となっては傍証資料がなく、通説の域を出ない。

もっとも。

消息が知れたところで、娘には迷惑な話であるかも知れないが。





【完】