小さな部屋に、コツコツと乾いた音が響く。

「…ここどこ?」

そう声をもらしたのは、可愛らしい女の子。

長い金髪が揺れ、白いエプロンが似合う、いつもと変わらない、か弱い子。

突然、黒い、艶のある靴がピタリと止まった。

「ああ、ここが不思議の国?」

腑に落ちたように、笑みをこぼして、彼女は言った。

「知ってるよ。全部しってる。

この部屋も、シナリオも。」

赤い瞳が一点を見つめた。

「チシャ猫さん。そこにいるんでしょ?」

「アリス?君がアリスか。

ようこそ、不思議の国へ。

…と言いたいところだけど、君は偽物?

瞳の色が違うよ。」

何もいなかったはずの所から、訝しげに彼女を見つめる1匹の猫が現れた。

変わった柄で、黄色と緑のオッドアイ。

変わった柄と言っても、アメリカンショートヘアによく似ている。

ただ、目にあまり良くない色をしているため、変わった柄に見えるだけだろう。

鋭い歯がのぞく口は横に大きく開かれている。

普通の猫は、こんな可愛げのない口はしてない。

この世界には『普通』なんて言葉はないのだろうけれど。

「私はアリスよ。

本物の。

ちゃんと白兎についてきた、か弱い女の子。」

腕の中にいる白いフワフワを持ち上げる。

よく見ると、黒いベストに、赤い蝶ネクタイ、手には大事そうにチェーン付きの懐中時計を持っている白兎だ。

「…ふーん。

僕にはそうは見えないね。

白兎を人質にとってどうするんだい?

処刑されて痛い目を見るのは君だよ?」

「知ってる。

別に人質にとったなんて言ってないじゃない。」

そう言いながら、アリスは白兎を撫でた。

白兎は気持ちよさそうに目を閉じる。

「…じゃあ、君は何がしたかったんだい?

シナリオが崩れてしまうじゃないか。」

チシャ猫は困ったように、アリスの腕の中の白兎を見つめた。

「白兎を仲間にしたいから。

どう?チシャ猫さんも、私の仲間にならない?」

アリスの赤い瞳がチシャ猫を捉えた。

チシャ猫は、目を見開いたあと、不気味な笑みを浮かべた。

「…君は、僕が見てきたアリスとは違うね。

……僕と組んで何がしたい?

君らアリスは、ハッピーエンドを迎えることが目的だろ。」

アリスは白兎を片手で抱き、チシャ猫に手を伸ばす。

「そうだよ。普通はね。

私のエンディングは、そんなんじゃ足りないの。」

アリスの手はチシャ猫を通り抜ける。

「足りない?

何がだ?」

「私はね、トゥルーエンドを迎えることが目的なの。

あなたも見たことがないでしょう?

このエンドで、この物語の何かが変わる気がするの。

どの物語にもトゥルーエンドはあるものよ。

違う?」

部屋に、甲高い笑い声が響く。

チシャ猫が狂ったように笑い出したのだ。

でも、アリスはチシャ猫から目を離さない。

「あぁ!今日は最高の日だ!

こんなに素敵な『アリス』が主人公だなんて!

僕は何百回とこの物語の『チシャ猫』を務めてきたけど、こんなにも美しく、聡明な『アリス』は見たことがない!

『神様』を信じてもいいくらいだ!!」

チシャ猫はアリスの首に絡みつく。

「あら、チシャ猫はずっとこの世界にいたの?」

「ああ!そうだよ!僕は君のような『アリス』をずっと待っていたんだ!!

大丈夫、僕は完全に君の味方だ!

さあ、手始めに何をしようか?

不思議の国を滅ぼす?

赤の女王を破滅させる?

いっそ君がこの国の女王になる?

あぁ、トゥルーエンドはどれにするんだい?

僕は君に何もかも捧げるさ!

君のためなら何だってしてやる!」

「そうねぇ。

どれも捨てがたいけど……」

アリスは少し考えた後、首に絡みつくチシャ猫に手を伸ばした。

「じゃあ、まず、私があなたに触れられるようにしてほしいわ。」

「もちろ…いや、仰せのままに、アリス。」

アリスの手は、チシャ猫を通り抜けることは無い。

アリスの手が離れた時には、チシャ猫の首には赤い首輪がつけられていた。

「割とフワフワしてるのね。

白兎には負けるけど」

「…おいおい、これは何だい?

こんなもの付けなくても、僕は逃げるなんて卑怯な真似はしないよ」

「私、用心深いの。

万が一、あなたが逃げたしたら、私は赤の女王に処刑されてバッドエンド。

ちなみに、その首輪、外したらどうなるか…ね?」

アリスは、とんでもなくたくさんなものを隠し持っているようだ。

首輪は白いエプロンから、足のベルトからは大型のナイフが出てきた。

「そんな物騒なもの、どこから持ってきたの?

この世界に持ち込めるとは、知らなかったよ」

「だって、この世界はどこもかしこも隙だらけなのよ?

住人はあまり頭が良くないし、落ちた穴にも手荷物検査はなかったしね」

「だからといって、そんな大型のナイフ、見つかったらどうするんだい?

持ち運びにも不便だろ?」

「武器がなかったの。

なるべく多くの武器が欲しくてね。

家の中の使えそうなもの、全部持ってきちゃった 」

「なるほど。

さすがはアリスだな。

他に何を隠してるか分かったもんじゃない。

そこまで言うなら我慢するよ」

アリスは満足そうに微笑み、白兎を静かに下ろした。

白兎はキョロキョロしたあと、狭いとも広いともいえない部屋を駆け出す。

「あいつは、アリスを裏切るのか?」

チシャ猫は走り去る白兎を眺めながら言った。

「白兎は裏切ってなんかないわよ。

ちょっと先に扉の所に行かせただけ」

「何で先に白兎を?

その必要性が僕には分からないね。」

「私は扉をどうやってくぐるの?」

「普通のアリスは、何も知らずに扉の前のクッキーを食べて、身体を縮め、小さな扉を開ける」

「私は今までのアリスと同じだと思う?この世界に、『普通』は通用しないのよ?」

「確かに君は今までのアリスとは違う。

そもそも、『何も知らない』という点では、君は例外だね。

でも、やっぱり意味が分からないよ」

チシャ猫はぐるっと90度首を傾げた。

「あなたは頭がいいからわかると思ったのだけど。

いいわ。

教えてあげる。

この部屋は小さな家の一室。

つまり、ほかの部屋がある可能性もあるわよね?

でも、ここは『普通』じゃないから。

白兎は赤の女王のお気に入りでしょ?

頭もそこそこいいしね。

まあ、赤の女王よりも頭がいい人なんて山ほどいるけど。





チシャ猫は言葉を詰まらせた。

「…そうだな。

冷静さが欠けていた。君の事になるとブレーキが効かなくてね。」

「あなた、本当にチシャ猫?

私の知っているチシャ猫じゃないみたいだわ。」

「大丈夫。ちゃんと初代からの『チシャ猫』だよ。

さぁ、そろそろ扉のところに行こう。」