私はマオに自宅マンションまで車で送ってもらい、部屋に帰ってからしばらく現実に戻れなかった。
 羽田くんに買った歯ブラシやマグカップを見ると少し辛かったけど、それよりもマオとの契約をした自分に驚いている。羽田くんのことも気持ちの整理のつかないまま、マオとの期間限定恋愛。わかってるはずの私本人が全くついていけず、夢のようにフワフワした気持ちでいる。
 マオはベッドの中で期間限定恋愛の理由について話してくれた。
 1、親が決めた結婚相手にとても気に入られてしまっているが、マオは乗り気ではない。
 2、親に私を彼女として紹介して、結婚相手とのことをあきらめてもらう。
 3、私のことがお気に入りだから
 4、契約したその日から彼女として仕事してもらう。報酬あり。
 3、のお気に入りに関しては「見てて面白いから」だった。4、に関しては、マオの呼び出しは絶対に来てもらう代わりに報酬を払う。完全にお金で割り切ること前提だった。
 1、2、については…私みたく中流家庭ではちょっとないようなドラマがあるみたい。詳しくは話してくれなかった。
 マオの自宅は東京でもお金持ちが住むといわれている地域。間取りはメゾネットタイプの1LDK。家賃は想像もできない。置かれている家具や雑貨も見るからに高価そうなものばかり。
 「契約したんだし、自己紹介しなきゃね」マオがいたずらっぽく笑った。
 マオの名前は、中井マオ。28歳。
 昨日のスペインバル「ブエンビアッヘ」のオーナー。現在3店舗目を計画中。
 両親は国内、そして海外でも有名な日本食レストラン経営。海外セレブ多数有名人が訪れていて、私の会社でも何度か取材させてもらっている。
 マオは正真正銘お金持ちの息子であり、彼自身は親の力を借りずに自ら事業を立ち上げ経営している。
 私、鈴木ともこ、32歳。娘の結婚を待ち望む両親と弟の4人暮らし。平凡な家庭に育ち、最近イケメン上司に遊ばれ捨てられました、以上。
 ...なんつー内容の違い。
 私なんかで本当にいいのかな。もっと可愛い若い子でも期間限定恋愛してくれそうだけどな~。なんとなく気になって聞いてみた。 
 「期間限定の相手、私なんかでいいの?」
 「あー…誰でもいいんだけど、たまたまともちゃんがいたからさ。インパクト強い出会いだったし、美人だし楽しそうだし。どうせなら楽しいほうがいいでしょ」
 なんか素直に喜べない…あの時は私めちゃめちゃ落ち込んでたから。 
 「あと、こんなふざけた契約にのってくれてありがとう。3ヶ月後に100万払うよ。それでいいかな」
 「100万⁉…」
  私に何をさせるつもり?ちょっと高額すぎて怖いんだけど…
 「なんもないって。ただ、僕の彼女をちゃんと演じてくれればいいだけ」
 不安げな私にマオは涼しい顔で、私のおでこにキスをした。
 いろいろと疑問はあるものの報酬100万円は魅力的だった。私は羽田くんに裏切られた時から、今の会社をすぐ辞めようって強く思っていたし、転職したとき収入があるのは何かと心強い。
 お互いにメリットありの契約。
 なぜか無意識にベッドの中でのマオの適度に鍛えられた腹筋を見た時のドキドキを思い出してしまった。
 耳元で何度も「かわいいね」ってささやいてくれた時にまた涙がでた。それは昨日の自分があまりにみじめで、情けなくて、自分に自信をなくしていたから。そんな時の優しい言葉は嘘でも本当に心にしみる。その涙を何度もキスで拭ってくれた。優しいキスって多分こういうことかもしれない。泣いている私を泣き止むまで抱きしめてくれた。
 ほかの人に気持ちを残しつつ、違う男の人に抱かれるって複雑だけど私には必要なことだったのかもしれないな。 
 バッグの中身を整理しようとして、スマホのチカチカに気づいた。 
 スマホのチカチカは結果、友達の美和からだった。来週の休みにランチに行こう。だって。
 昨日のハロウィンに起こったすごい出来事を教えてあげたら、いったいどんなリアクションをするかな。
 そして、羽田くんは言い訳もしてこない。
 少し腹も立つけれど、なんだか怒るタイミングを失ってしまった。
 昨日地獄に突き落とされた気持ちのまま家に帰っていたら、私はどうなっていたんだろう。今のように落ち着いた自分ではいられなかったかもしれない。アイスクリームをたくさん買い込んで、泣きながらドカ食いしていたことだろう。もしかしたら、羽田くん宅に押しかけてみっともなく泣きわめいていたかもしれない。
 今はこの奇妙な契約が気晴らしになってかえってよかったのかもしれない。

期間限定恋愛契約日の翌日、羽田くんに振られてから二日目 AM10:00

 行きたくないけど出勤した。
 羽田くんの予定を見ると。
 今日は午後から出社、夕方は会議。午後から会うことになる。緊張するけど、私は悪いことはしてないんだから、堂々としなきゃ。
 「鈴木さん、おはよう」
 この背中からくるねっとりする感じのダミ声は…
 「西田さん…お、おはようございます」
 西田さんは面白いネタがあるから、私に話しかけてきたと、思う。
 「一昨日はお疲れ様。…調子はどうなの?」
 「…」
 「余計なお世話かもしれないけど、心配してたのよ」
 「あ、ありがとうございます」
 「…大丈夫?」
 「…」
 「これは、いい情報かわからないんだけど」
 これ以上私にダメージ与えるつもりかしら。
 「羽田編集長の婚約発表ね、彼女が勝手に婚約したって言いだしたらしいわよ。付き合っていたのは1年以上も前かららしいんだけど、羽田編集長ってほら、あのルックスじゃない?彼女もほっとけなかったんでしょうね」 
 「…西田さん、私はもう気にしてませんから」
 「まあ、回復するのが早いのね」
 この人は励ましたいのか、面白がっているのかなんなのか。
 本当なら怒るところなんだけど、なぜか、それほどショックを受けなかった。
 私があまり動じないので面白くなくなったのか、西田さんは簡単な業務連絡だけ伝えてさっさと自分の席に戻っていった。
 さあ、気持ちを切り替えてさっさと今の仕事を終わらせよう。退職願も出さなきゃ。
 羽田くんが帰ってきたら、退職願を突き付けてやる。
 今日の目標は、一昨日のことなんて気にもせず淡々とふるまうこと。絶対に感情的にならないこと。以上。 
 机に向かってしばらくパソコンとにらめっこしていると、スマホがチカチカ点滅しているのに気付いた。
 ん~、美和かなあ。ちょうど目も疲れてきたしちょっと休憩…スマホのメールを確認すると
 「マオです。昼空いてる?」
 えっ。えーと。何を動揺しているの、私ってば。ただのランチの誘いでしょう。
 「空いてるよ」
 送信。しばらくしてスマホが点滅
 「12:10にカフェセラボンで」
 カフェセラボンって、うちの会社の前に立ってるオープンカフェじゃない。
 会社の近くに用事でもあるのかな。
 私ってば、今日会えるだなんて思ってなかったから、いけてないデザインのカーキ色ジャケットにベージュのパンツ。自分のことをお洒落とはおもっていないけど、もう少しましな恰好すればよかったかも。
 いやいやいやいや。
 振られて二日目だよ?
 期間限定恋愛だよ?
 相手はお洒落だとかそんなの気にしないし目にも止めるわけないでしょ?
 なに考えてんだ、私。

PM12:10
 「もうちょっとましな服もってないの?」
 会って一番最初に言われた言葉。
 オープンカフェのテラス席は満席。一番端の席でマオが先に待っていてくれた。
 「最初から約束していれば、もうちょっとましな恰好できたわよ」
 「ベマの方がまだかわいかったかもね」マオがいたずらっぽく笑う。
 「ぐっ・・・」
 ほんとに失礼な奴。
 マオは白いシャツに黒いパンツ。シンプルだけど、一目見て高価なものだとわかるものを身に着けていたし、背の高いマオに良く似合っている。白いシャツのワンポイントにピンクのブランドロゴが刺繍されていた。
 あ…そのブランド、まだ日本にきてないやつだ。
 なんだか悔しくなったから「今日は1日デスクワークって決めてたから、こんな格好なの」もう一回言い訳してみた。マオは私の話なんか無視して、メニューを見ている。
「マオさん!」
私たちの席に向かって美女が歩いてきた。
長い脚がよく映えるAラインワンピースを着た彼女は、私には目もくれないでマオに笑顔を向けている。
マオは表情ひとつ変えずに会釈した。
「一昨日のハロウィンでは、いっしょに飲めて楽しかったわ。マオさんの仮装最高だった」
「、、、、、」
 マオが黙っているので、私はどうすればいいのかわからない。
 「あのさ、今この状況見てわかんないの?」
 マオは冷たく淡々と目を丸くして驚いている美女に向かって言った。マオは私の肩を引き寄せて
 「この子、僕の彼女。わかる?邪魔しないでくれる?」
 美女は私の顔をまじまじと見つめて、理解できないというような複雑な表情を浮かべた。
 こっ、こわい・・・・私は目をそらす。
 「マオくん、彼女いたんだ。ふーん」趣味がわるいわね、とでも言いたげだった。
 美女が去った後、私は軽く落ち込んでしまった。女として負けてしまった感がすごい。
 「ここの日替わりココットどれも美味しいよね」
 マオは何事もなかったように私にメニューをすすめてきた。マオは何を考えているんだろう。私にはさっぱりわからない。
マオにすすめられるままにグリーンカレーのココットを頼む。食事が運ばれてきてからも、なんだか不安でいっぱいだった。
マオは優しい口調で私にきいてきた。
「何を考えてるの?」
「それは、私がききたいよ」
 「僕ね、正直女の子苦手なの。だけどうじゃうじゃうるさいから、彼女いるっていえばもう寄ってこないでしょ?けど、彼女っていう存在も面倒なんだよね」
 「私は面倒じゃないの?」
 「・・・・面倒くさい女になるの?」
 「・・・・ならない。失恋したばかりなのに、他の人に簡単にいくわけないでしょ。そんな気持ち絶対ない」
 「でも、ともちゃんとのベッドの中での相性はばっちりなんだよね」
 「なっ・・・・!」
 「ともちゃんだって悪い気はしないでしょ?」
 「・・・・」
 正直、全然悪い気がしなかった。マオはとても優しかったから。
 これが身体だけの関係ってやつなのかしら…私にはそんなことできないと思っていたけれど、案外抵抗なく受け入れてしまっていた。 
 食後のコーヒーが運ばれてきたときに、マオが突然思い出したように言った。
 「そうそう。今晩、開けといてくれる?」
 「今晩?」
 「そ。報酬払うんだから断れないよ」
 何それ、もう命令じゃないの。何をするのか聞きたかったけど、ちょうどマオに電話がかかってきて仕事の話をしている。
 マオは電話をしながら、後で連絡するっていうジェスチャーをした。私もそろそろ会社に戻る時間が近づいてきていたので聞けないままお店をでた。
会社に戻ると、いきなりエレベーターで羽田くんと鉢合わせした。
 えっ、なによ。このタイミング…
 「お疲れ様」
 羽田くんはいつもの笑顔だった。
 私は動揺してしまって何を言えばいいのかわからなくなってしまった。
 「…お、お疲れ…さまです」精一杯のあいさつ。
 「エレベーター乗るの?」
 私ってはエレベーターの前でフリーズしてた。カッコ悪い…
 バツ悪そうにエレベーターに乗る私。
 二人きりのエレベーター。私の後ろに立つ羽田くん。羽田くんは今どんな顔をしているんだろう。
 今がチャンスじゃないの。退職願の話をしなきゃ。
 「あっ。あのっ・・・」退職します!って言おうとしたら。
 「ハロウィンの時は…ごめんなさい」