目覚し時計のベルが鳴る。
それに応えるような鳥のさえずり。
日に日に早くなる4月下旬の青白い夜明け。
一睡もできずに迎えた朝は気だるく、まだ肌寒いベランダで吐き出したため息がゆっくりと空に昇っていく。
私の手の中で飲みかけのコーヒーが冷たくなっていた。
「………梨世ちゃん? おはよう」
ルームシェアをしているイズちゃんが寝ぼけた声で、
「早いね。いつ起きたの?」
いつものように、私に話しかける。
「うん? さっきだよ」
「そっか。じゃあ、朝ご飯作るね。食べるでしょ?」
「ごめん。今日はいいや。先に行くね」
私は、最低な女だ。
いつも私のことを気にかけてくれる優しい彼女を裏切った。
「そっか。じゃあ、いってらっしゃい」
彼女が気になっていると言っていた彼に手を出した。
「うん。いってきます」
私はメイクもしないまま、逃げるように部屋を出た。


いつもより早く着いてしまった大学はほとんど学生がいなかった。
朝練中の野球部が私を追い抜いていく。
学食で朝食に焼き魚定食を食べた。
今日の魚はシマホッケだった。
小さい頃は朝早くから仕事に向かう母親の代わりに祖母がよく魚を食べさせてくれた。
そのおかげか私は魚から上手に骨が取れる。
これがなかなか男子には好評だった。
派手な身なりからするとちょうどいいギャップになる。
そんなことを考えながらトイレでメイクをし終えると、普段通学してくる時間になっていた。
私はデザイン学部がまとめられている教室棟の28号館、通称デザ学棟には立ち寄らず、心理学の講義が主に行われている26号館、心理学棟に入った。
石畳の広場を挟んで隣にあるのにそれぞれの学生が行き来することは少なかった。
心理学科の学生達の中を私は目的の教室へと抜けていく。
彼はケータイの電波がギリギリ届く地下の教室にいることが多いと話していた。
開け放たれた地下教室のドアから中をのぞくと、デザ学の学生とは違う落ち着いた感じの子が多かった。
「あれ、デザ学のリセビッチじゃない?」
のぞき込んでいる私に誰かが気付いてそう言った。
また誰かか私のことを悪く言っている。
こんな時、文句があるなら直接言えばいいのにと思ってしまう。
「この前も学食で男にフラレて水かけて修羅場だったって」
「でも何でここにいるの?」
「さあ?」
そんな気もないなら無視してくれればどれだけいいことか。
他にもいろいろなことを言われる。
メンヘラビッチだのダメンズハンターだの、サークルに入ってもいないのにサークルクラッシャーだのと言われている。
しかも全てが陰口だった。
こんなことをどれだけ繰り返せば満足するんだろう。
「何かご用ですか?」
呆れながら彼を捜していた私の背後からの声に振り返ると、白いニットワンピにカーキのMA-1を羽織った緩く巻いた黒髪がかわいらしい女の子が立っていた。
「あのー、椋木くんいますか?」
「あ、椋木くん? ちょっと待って。椋木くんお客さーん!」
彼女が叫ぶと教室全体がざわついた。
奥の方で立ち上がった椋木くんが見えた。
隣の学生と何かじゃれ合ってからこっちへ歩いてくる。
私は小さく手を振る。
「もしかしてアナタが、新しいバイトのヒト?」
彼も友達と私の話をしているみたいだ。
私のことをどう言っているんだろうか。
「ん? あ、はい。鹿山梨世です」
バイト先にかわいい子がいて、なんて話だろうか。
それとも、悪口だろうか。
「あ、どうも。カニクリです」
「え?」
「カニクリームコロッケです」
かわいい真顔で彼女は言った。
「はあ」
「カニクリ、何してんの?」
「ただの自己紹介だけど」
「あー、はいはい。鹿山さんこっちいい?」
教室の入り口から休憩スペースに歩いていく彼はいつも以上によそよそしい気がする。
「それで何の用だった?」
彼は少し早口で話し出した。
「またバイト代わってとか? それなら電話でもよかったのに」
今日は時間があるから座って話でもって思ったのに。
「ううん、違うの。昨日の、ほらみっともないところ見せちゃったなって。ごめんね」
「いや、最初からみっとない姿しか見てないから」
「えー、ひどくなーい!? 私そんなに見せてないでしょ」
「そうだね。フラレてメイクボロボロだったくらい」
彼が自然に笑った。
いつもは仕事のことしか話さずに、暗い照明のせいか笑顔なんて見た記憶がなかった。
「ひどーい! あれは忘れて。見なかったことにして。お願い」
「わかった。そうする」
彼がそう言うと、
「椋木くん! 栄川先生がいらっしゃったよ」
さっきのカニクリームコロッケちゃんが入り口で彼を呼んだ。
「わかった! それじゃ、鹿山さん」
「うん。またね、椋木くん」
彼を見送り歩き出す私の足取りは弾む。

***